東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内旧別子小足谷部落と収銅所跡

小足谷部落と収銅所跡

   醸造所や接待館跡の近くの谷間に案内板があった。
 今は何も見えない谷であるが、ここに収銅所があったという。
 山根収銅所と同じような施設があったのだろう。

旧別子案内 No 4
小足谷部落と収銅所跡

 ここから横に入ると小足谷部落跡に出る。そこは職員部落で銅山の責任者である別子銅山支配人の広い敷地跡の煉瓦塀に昔の観模が偲ばれる。料理屋や精米所もこの部落にあり、栄えていたが、明治32年の台風により家屋は倒壊し死傷者が出た。
 対岸には小足谷沈殿池の長い石垣が下流に続いており、寛政坑の坑口は、この上の道端の小さな山神社の下岸に口を開いている。
 
 ※ 沈殿池では鉄屑の表面に排水中にとけている銅を析出させ回収すると共に、排水処理を行い鉱害を防止していた。
 
 ※ この坑は寛政初年(1790年代)坑内排水用として着工、諸工事のため長年月を経て明治に入って了工し、永年の湧水を一挙に処理し画期的疏水坑であった。
 
 


小足谷疎水道と収銅所

 
 この道を下ると足谷川にでる。
 そこに小足谷疎水道の坑口がある。
 別子銅山の深部に溜まった坑内水を排出するために寛政4年(1792)に着工した。
 坑道の長さは940mもあり、これは手掘りの時代においては常識はずれの大工事であった。
 従って、途中何度か中断があり、明治元年(1868)4度目の着手で黒色火薬やダイナマイトを使って明治16年(1883)に4番坑道に貫通した。
 
  この完成によって坑内水の排除と通気問題が一挙に改善された。
 但し、坑内水には硫黄や重金属が含まれており、川に直接流すことは出来なかった。
 そこで排水は延々と箱桶の中を通し、鉄屑を入れて銅を沈殿させ、余水は沈殿池に溜めて浄化し、上澄みだけを放流していた。
 この対岸一帯にはその施設が構築されていた。
 
 
→【No 5】 小学校跡/小足谷劇場跡

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