旧別子案内 No 4 ここから横に入ると小足谷部落跡に出る。そこは職員部落で銅山の責任者である別子銅山支配人の広い敷地跡の煉瓦塀に昔の観模が偲ばれる。料理屋や精米所もこの部落にあり、栄えていたが、明治32年の台風により家屋は倒壊し死傷者が出た。 対岸には小足谷沈殿池の長い石垣が下流に続いており、寛政坑の坑口は、この上の道端の小さな山神社の下岸に口を開いている。 ※ 沈殿池では鉄屑の表面に排水中にとけている銅を析出させ回収すると共に、排水処理を行い鉱害を防止していた。 ※ この坑は寛政初年(1790年代)坑内排水用として着工、諸工事のため長年月を経て明治に入って了工し、永年の湧水を一挙に処理し画期的疏水坑であった。 |
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