東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内旧別子角石原

角石原

   銅山越から東平に降りる山道の途中で少し広い所に出る。
 ここには銅山嶺ヒュッテが建てられている。
 
 この角石原は、第一通洞から運ばれた粗銅の中継地点であった所である。


旧別子案内 No 22
角石原停車場跡

 
 別子銅山上部坑で採掘され、高橋で製錬された粗銅は、第一通洞を通って角石原に送られ、ここから石ケ山丈まで、5532mの距離を762mm軌道の鉱山上部鉄道で運ばれ、そこから索道で端出場まで降ろされた。
 この上部鉄道は明治26年(1893)から使用され同44年(1911)に廃止された。
 
 この下方には明治19年に鉱石送鉱場と焼鉱窯が建てられたが今は、窯跡を示す煉瓦を残すのみである。ここから西方800mの地点に嶺北側最大の坑口太平坑の跡がある。
 
 
 
 



旧別子案内 No 23
角石原

 
 ここ角石原は、明治時代旧別子銅山の中心部と新居浜の口屋(住友の分店)を結ぶ牛車道の中宿(中継所)や、第一通洞の北口、また上部鉄道の発着駅として、輸送の要衝となっていた所である。
 牛車道は口屋より立川山村渡瀬、石ヶ山丈、角石原を経て目出度町まで延々28km、明治14年から、同26年(1893)の間輸送路として使用された。
 ここから、東へ300mの所に中宿のあった大地形があり、上部鉄道を通って石ヶ山丈迄の間に「あかもの」の群落や、山中に没した旅行者などの霊を祀る千人塚がある。
 
 

第一通洞北口


 
 角石原に第一通洞の北口がある。
 南口から直線の坑道である第一通洞により北口まで粗銅が運ばれ、角石原で鉱山鉄道に積み替えられていた。

旧別子案内 No 24
第一通洞北口

 
 別子銅山が盛んになるにつれて、産銅の搬出と物資の輸送量が増大し、新居浜まで牛車道ができたが、途中にある標高1300mの銅山越は交通の隘路となり、輸送路の短縮と合理化を図る必要が生じてきた。
 そこで嶺南旧別子銅山の東延谷と嶺北の角石原をトンネルで結ぶことを計画し、明治15年(1882)から19年(1886)にかけて、長さ1,010mの第一通洞を貫通させた。
 内部には軌道が敷かれ、人車や牛車によって輸送を行っていたが、明治44年(1911)運搬方法が第3通洞(明治35年完成、日浦通洞が同44年完成)経由となることによって廃止された。
 
上部鉄道跡 (【No 25】千人塚)

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