東人の新居浜生活/近郊の観光地
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旧別子
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蘭塔場
蘭塔場
小高い岩上にインカの遺跡かと思うようなコの字型の石垣が残っている。
ここが蘭塔場(蘭塔婆)というお墓である。
元禄7年(1694)、焼窯から上がった火はまたたく間に燃え広がり、山中の主要設備をほとんど焼きつくし、そのうえ手代(別子銅山支配)杉本助七以下132名の焼死者を出す大惨事となった。これらの犠牲者を悼み、住友家が設けて祀ったのがこの蘭塔場である。。
大正5年の旧別子撤退に伴い、蘭塔場の墓碑は新居浜市の
瑞應寺
に移された。
現在でもこの蘭塔場で、毎年、盆の供養が続けられている。
旧別子案内 No 17
蘭塔場跡
前方の小高い岩山の上に見えるコの字形の石垣が蘭塔場である。蘭塔場とは墓場のことである。
元禄7年(1694)4月25日焼鉱窯からの飛火が折柄の旱天続きにたちまち燃え拡がり、山中の主要設備をほとんど焼きつくした。
ここには、当時猛火の中に逃げ場を失って山中に殉職した手代、杉本助七以下132人の犠牲者の霊を祭る墓所であったが、大正5年別子上部撤退にともない山根町瑞応寺境内に移され、そこに安らかに眠っている。
なお、この蘭塔場でも毎年欠かさず供養がつづけられている
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旧別子中心部の展望
この場所には行ったことが無いが、昔は眺望が開けた所であったのだろう。
このような案内板があるようだ。
旧別子案内 No 18
旧別子中心部の展望
正面、西南に見えるのが”つなくり山”で、その裾の樹林帯の中に鉱山の中心街目出度町があった。
樹林帯の中央上部三本のもみの大木の左に、重任局跡が残っている。
つなくり山の左半分を流れる二本の沢の左が両見谷で、右が見花谷である。
西の風呂屋谷と北の歓喜谷に挟まれて、眼下に見える石積みは別子病院跡で、ここには、明治末年に鷲尾勘解治によって自彊舎が開かれた。
西北の前山の肩部や、蘭塔場山の左裾に、牛車道の跡が残っており、背面東南の寛政谷の両側には、焼鉱炉の跡が多数ある。
南東の東延谷の彼方稜線の端に見える砲塁のような石積みは、高橋上部の焼鉱炉跡で、東の山腹に見えるコンクリートの壁は、東延火薬庫の跡である。
【No 19】 歓喜坑
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