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広瀬歴史記念館


   幕末・明治の動乱期に、政府による接収や住友の経営難による売却から別子銅山をまもり、その発展の近代化を推進した人物が広瀬宰平である。
 彼はまた、わが国の産業の育成にも力を注ぎ国家の発展に貢献しました。
 宰平の足跡を通して新居浜の生い立ちと日本の近代化産業の歩みをたどることができる。
 
 ここの建物は、写真でも判るように高く突き出た部分がある。
 記念館の中に二つの窓が有り、それぞれ南の山々と北の新居浜市内や瀬戸内海が展望できるようになっていた。突き出た建物の上からの光景を潜望鏡のように下まで導いているもので、これを望煙楼と言う。

 
 広瀬歴史記念館には、広瀬宰平の業績を語る品々が展示されている。
 展示品の中で、特筆すべき物として、住友家拝領の引退記念品である、狩野探幽筆の寿老人(中)・鶴(左右)の三幅対 がある。
 
 また、明治25年、渋沢栄一と共に民間人で初めて授かった明治勲章も展示されている。
  
寿老人(中)
・鶴(左右)
の三幅対
狩野探幽筆 明治27年(1894)11月、宰平の退職に際して、住友家から賜った物。
 自筆箱書に「宰平老人退職致仕之日、家長住友々純公より所賜之品物」とある。
 探幽(1602〜74)は、江戸時代前期の幕府御用絵師で、狩野派中興の祖。
 本三幅対は、寛文6年(1666)、65歳晩年の作品である。
四季草花図屏風
(六曲一双)
狩野探信画 四季の草花24枚を屏風仕立てにしたもの。
 狩野探信は、江戸時代後期の狩野派の画家。画に堪能で、当時名手と称されたが、天保6年(1835)51歳で没した。
鯉ノ図 円山応瑞画 応瑞(1766〜1829)は京都円山派の創始者応挙の子。
 平明で写実を旨とした同派の伝統をよく表した絵である。

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 広瀬宰平    
 生没年  文政11年(1828)5月5日〜 大正3年(1914)1月31日
 諱   満忠 
 雅号  保水・遠図・宰翁
 幼名  駒之助
 通称  治助・新右衛門・義右衛門・宰平

略年譜

文政11(1828)   1歳   近江国(滋賀県)の医者北脇理三郎の次男として誕生  
天保7(1836)   9歳  叔父に伴われ、別子銅山に赴き、2年間勤務 
安政2(1855)   28歳   広瀬義右衛門の夫婦養子となる  
安政6(1859)   32歳   長男満正生まれる  
慶應元(1865)   38歳   別子銅山支配人に就任  
明治元(1868)   41歳   別子銅山差し押さえの危機を回避する           
銅山司職員として生野鉱山に出仕、同4年再出仕  
明治2(1869)      42歳   自家田畑を抵当に山銀札を発行
明治4(1871)   44歳   神戸に製銅販売の出店設置  
明治5(1872)   45歳   イギリス人から蒸気船白水丸を購入  
明治7(1874)   47歳   フランスの鉱山技師ラロックを雇い入れる  
明治9(1876)   49歳   別子鉱山近代化起業方針を示す  
明治10(1877)   50歳   住友家総理代人(後の総理事)となる  
明治11(1878)   51歳   大阪商法会議所・大阪株式取引所の設立発起人となる  
明治14(1881)   54歳   関西貿易社・大阪製銅会社の設立発起人となる  
明治15(1882)  55歳   住友家法を制定  
明治17(1884)   57歳   大阪商船会社を設立、初代頭取となる  
明治20(1887)   60歳   住友近江製糸場を設立し、神戸支店で製茶の輸出開始  
明治21(1888)   61歳   新居浜惣開製錬所・山根製錬所操業  
明治22(1889)   62歳   幸婦人とともに欧米を巡遊、神戸に樟脳製造所を開設  
明治23(1890)   63歳   山根製錬所に製鉄係設置  
明治24(1891)   64歳   別子鉱山鉄道敷設に着手、同26年竣工  
明治25(1892)   65歳   民間人として初めて明治勲章を受勲  
明治27(1894)   67歳   住友家を依願退職、3年後、須磨に隠棲  
大正3(1914)      死去、享年87歳  

 2010年12月30日の日本経済新聞一面のコラム「春秋」にて、住友の「総理」であった広瀬宰平のことを引用し、昨今の日本の「総理」にはリーダーシップが乏しいと論じていた。
 短い文章であるが、広瀬宰平のことを以下のように説明されていた。
 
 別子銅山を営んでいた住友家は総理という職務を置いた先駆けのひとつだ。 1877年に、銅山に洋式技術を取り入れ始めた広瀬宰平を病気の当主の「総理代人」に使命。」「一切之事務ヲ惣轄シテ、数多雇人ヲ統御スル」権限を与えた。
 そのころから、「総理」はすべてを監督するという意味があった。広瀬は役職名の通りの指導力を発揮する。海運や製鉄に進出し、今でいう企業統治改革も断行。住友家の権限を弱め、広瀬のような雇われ経営者が事業の意志決定を担うルールを設けた。住友家当主に京都から養子を迎えるなど創業家にも介入した。
 独裁色を濃くした広瀬には内部から批判も強まり、銅山の煙害問題もあって事実上のトップの座を94年退いた。だが反発を承知で「所有と経営の分離」を進めた統治改革は、住友グループ発展の基礎になった。


 この「春秋」は、誰が書いているかは明かにされていないが、広瀬宰平について詳しい人のようだ。
  

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