東人の新居浜生活あかがね探訪足尾銅山足尾銅山(9)


足尾銅山(9)


古河橋

 しばらく歩いていると、コンクリートの橋の脇に鉄橋が見えた。
  これが古河橋であり、今は歩行者も通行禁止になっていた。
  対岸には大きな精錬所が見え、昔はこの橋に鉄道が通っていたらしい。
  精錬所への物資輸送のための重要な橋であったのだろう。
 

古河橋

 
 古河橋は、明治中期までに架設された道路用鉄橋として、原位置に現存する極めて貴重な橋で、足尾銅山の誇れる産業遺産である。
 足尾銅山では明治18年(1885)古河橋の前身である木造の「直利橋」を架けたが、同20年4月の大火で焼失したので鉄の橋を架設することとした。
 「古河橋」はドイツ・ハーコート社製で、同23年6月架設工事に着手した。橋台は煉瓦積工法で、次いで鋼構造部材の組立のための足場が完了したが、8月22日に松木川が大洪水となり足場は一部を残し流出したあので再構築し、10月26日に鋼材の組立に着手し、12月28日に竣功させるという突貫工事であった。
 古河橋の型式は、鋼鉄製、木床版、単径間ボストリング・ワーレントラス式 ピン結合 橋長48.5m 幅員4.8m(有効3.6m)で、上弦材にH形鋼を使用した珍しい型式である。
 翌年には橋上に日本初の実用化した電気鉄道(単線)を敷設した。後年老朽化したので床板の改修や主構材の補強などで維持してきたが、平成5年に「新古河橋」が下流側に架設されたので古河橋は歩道橋として残された。
 
日光市指定文化財 (昭和56年12月1日指定) 日光市教育委員会
 
 

 

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精錬所

   古河橋の先の対岸には大きな精錬所の建物が残っている。
 この精錬所は、今は稼働していないように思える。
 
 閉ざされた入り口の門柱には二つの表札が掲げられていた。
 

 足尾精錬株式会社 
足尾精錬所
 


古河機械金属株式会社 
足尾事業所
 

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直利音頭

 古河橋の近くに小さな公園があり、そこに「直利音頭 発祥の広場」の説明書きが設けられていた。
 
足尾銅山 
盆踊り 
 直利音頭   発祥の広場


 この広場で、大正13年(1924)に赤倉町務会が「八木節」を始めたことが切っ掛けであろうか。時に、足尾銅山労働大争議(大正8年・10年)で荒れた後でもあり、文化・スポーツの振興に機運が高まる中、本山坑勤務の畑中清(舟石出身)・堺正高(フランキー堺の父)等が、銅山に相応しい盆踊り唄を作ろうと、同年から毎年歌詞を募集し、当選歌を社内報で発表した。お囃子、振付けも創作され、昭和2年(1927)頃に「直利音頭」に変えて踊るようになり、足尾の盆踊りとして定着し全山で盛大に行われた。しかし、この広場での盆踊りは平成8年を最後に思い出を残して幕を閉じた。
 直利:銅鉱を多量に含んだ良質の鉱脈。


ハァー
花の渡良瀬
(アーヨーイヨイと)
青葉の小滝
サー
月の眺めは
チョイトサ
備前楯
(ハ スッチョイ  
スッチョイ   
スッチョイナ)

 天の岩戸も 踊りで開く
  銅山の直利も 踊りゃ出る

 山は三角 やぐらは四角
  踊れ兄弟 まんまるく

 わたしゃ足尾の 坑夫の女房
  坑内を恐がる 子は産まぬ

 銅山の友子の どこ見てほれた
  腕と度胸と 直利歌

 運と鈍とで 開いた足尾
  根で張り切りゃ 大直利


 (150程の歌詞のうち代表的なもの)


日光市
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