足尾で鋳造された寛永通宝1文銭は「足尾銭」と称されるが、背面に「足」の字が印されていることから、通称「足字銭」とも呼ばれている。 その足字銭が鋳造された由来については、江戸幕府の直山であった足尾銅山は、元禄15年(1702)から正徳4年(1714)までの年平均産銅量約1600tを最盛期にして、その後次第に減退し900tになったため、銅山師達44名は死活問題として山元の困窮を救うため寛保元年(1741)2月に幕府に対して足尾銅山で寛永通宝を鋳造することを願い出た。いわゆる「お救いの鋳銭座」であった。 こうして「足字銭」は寛保2年(1742)7月から延享4年(1747)までの6年間に荒銅約16万7千貫目をもって約22万2千6百貫文が鋳造された。その鋳造枚数は2億1千万余であった。 なお、鋳銭座の場所は、文化3年(1806)に幕府道中奉行によって画かれた街道実測絵図「五街道分間絵図」に記されているが、その場所は現在の中央グランド周辺である。 かつて、お銭のことを「おあし」(お足)と言っていたが、足字銭が語源とも言われている。 鋳銭座跡碑 日光市指定文化財(昭和51年3月15日指定) 日光市教育委員会
|
明治22年(1889)に呑龍上人えの篤い信仰心を持つ当町の有志が、太田市大光院から上人の分身を受け足尾別当所として呑龍祠堂を創建した。 明治39年に焼失したが翌年再建した。 本堂には阿弥陀如来を本尊に上人像を護持仏として安置されている。 毎年春には、かつての花祭りが今も行われている。 日光市
|
足尾駅に着いた。 足尾駅には、古い鉄道車両が置かれていた。 オレンジ色の客車には、このように書かれていたが、中に入ることはできなかった。
| ||