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B.Walter: "Thema und Variationen" |
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1950年にFischer Verlagから出版されたB.ワルターの自伝「主題と変奏」は1944年に米国で書かれた。ワルターの聞き語りによる68歳の時の回顧録である。日本語訳は2001年に白水社から刊行された。現在ではプレミアが付いた古書となっている。訳本なので肝心のところの真意は伝わらないが私の視点はどのようにしてモーツァルトの専門指揮者になったのか?およびK.ベームに対してはどのように評価していたのか?の二点であった。しかし、ベームに関する記載は皆無であった。モーツァルトに関しては、マーラーに教えて貰った。若い頃はモーツァルトは単純で面白くないと感じていたと正直に告白している。しかし、ベームはその著書でワルターがモーツァルトへの愛を開いてくれたと深い感謝の念を表明している。以下に抜粋する。 「W.A.モーツァルトは私の常に変わらぬ愛の対象です。私が彼に長年捧げてきた愛に、彼は千倍も報いてくれましたし、苦しい時にも自分の職業に絶望しないように常に私を勇気づけてくれたのも彼でした。モーツァルトは、私が絶えず活力を汲み出すことの出来る、いわば私の生命の泉なのです。人々が私のモーツァルトを聴きたいと言ってくれ、オーケストラの演奏家が私の指揮でモーツァルトを演奏したいと言ってくれるのは、私のモーツァルトに対する大きな愛情と、この偉大なる天才作曲家に対する崇拝の念が溢れ出る結果だと思います。芸術家の真実の気性は、その芸術の中に極めて如実に表現されるものです。私が幾度も強調してきたことなのですが、モーツァルトという人はすべての人間的情熱というものをよく知っていたので、そのすべてを最終的に音楽の中に書き表すことができたのです。 私はR.ワーグナーを崇拝する家庭の雰囲気の中で育ちました。私の父というのが、このバイロイトの巨匠の熱烈な信奉者だったからです。私の音楽のキャリアは1916年に始まりました。故郷のグラーツの歌劇場の伴奏ピアニストになったのです。1917年にはそこで指揮者としてデビューしました。1921年、私は”トリスタン”をもって故郷の歌劇場に別れを告げました。二回の指揮テストの結果、B.ワルターが私をミュンヘン歌劇場に招聘してくれたのです。ミュンヘンは私にとって決定的なものになりました。というのは、B.ワルターが私のモーツァルトに対する愛を目覚めさせてくれたからなのです。当時私は、ワルターの指揮するモーツァルトの上演はほとんど逃さず聴き、彼の練習も何とか都合のつく時はいつも聴きました。B.ワルターは、私のこの興味に気づいてくれ、そしてある日、信じ難いことが起こったのです。ミュンヘンで仕事を始めた最初の年なのに、まして私のように末席で一番若い指揮者に”後宮からの誘拐”の指揮をすることが許されたのです。それもR.タウバーがベルモンテ、M.イヴォーギンがコンスタンツェ、B.ベンダーがオスミンといった、私が今でも望めれば望みたいようは配役だったのです。”フィガロ”もその後間もなく、音楽週間の間に、驚く程音響効果の良い素晴らしいレジデンツ劇場で指揮しました。今世紀のモーツァルト・ルネサンスはB.ワルターのおかげですが、私は彼に私の音楽的視野を広げてくれたことを感謝しています。彼はまた私の妻を歌手として発見してくれましたし、私は彼の死まで友情と尊敬とで彼と結ばれていました。」 (わが最愛のモーツァルト) 「主題と変奏」に記載が無くても、この師弟関係が深く決定的であることは容易に理解できる。師匠から見た弟子というものは空気のような存在なのかも知れない。戦後に初めてウィーンの町に降り立ったB.ワルターの第一声は「あのベーム君はどうしているかな?」であったとのエピソードはそのことを物語っている。戦争を挟んだ十年間の空白を感じさせないウィーンへの復帰を市民は歓迎した。ナチスによって米国に事実上の追放を受けたワルターであるが、その復帰に際して何も苦情めいたことは言わなかったという。度量の深さを窺わせる逸話であるが、恐らくは愛弟子のベームの立場を守るためではなかったかと推測する。ベームは戦後早くにウィーン歌劇場の音楽監督として復帰したがR.シュトラウスと共にナチスへの協力が問題視され辞任している。R.シュトラウスはワルターが米国に去った後にベームにモーツァルトの多くを教えた。このような師弟関係のために戦争が終わるまでは彼らのことは語りたくなかったのではないか。戦前の三大指揮者の内でW.フルトベングラーはナチスへの協力で戦後に批判されたが、A.トスカニーニはB.ワルターを助けてスイスからフランス国籍を取得させ米国へ亡命さけるのを助けた。ワルターの長女が離婚した夫に銃殺される悲劇の時もワルターに代わって指揮台に立ったのはトスカニーニであった。そして米国で共に戦後の音楽界の復興に尽力した。 さて「主題と変奏」とは何か?主題とはB.ワルター自身のことを、変奏は人生の転変をさすと著書にある。主題とは古典音楽形式におけるテーマのことであり、変奏はその形式に従って変化する変奏曲のことでもある。指揮者であるB.ワルターは自らの人生を音楽形式になぞらえて書き残したかったのではないか。主な内容はヨーロッパでの広範な活躍を詳細に記録している。ハンブルク、ウィーン、ミュンヘン、ライプチッヒなど主要な歌劇場のほとんど全てを歴任した稀有の指揮者も最初はハンブルクでG.マーラーとの出会いによってモーツァルトに開眼する。そして共にウィーンへ移りベルリン生まれではあるが、モーツァルトが活躍したウィーンこそ永遠の都と認識するようになる。ウィーンは京都に良く似た性格の町らしい。訳者の内垣啓一氏はウィーン言葉を京都語に訳してそのニュアンスを伝えようとしていた。 私の視点は二つとも、「主題と変奏」からは解くことは出来なかったがB.ワルターは人間味のあるこころの深い指揮者であることは十分に理解できた。「歌いなさい」や「何故歌わないのですか」という有名な練習中の指示はそれを証明している。「モーツァルトは歌うように弾け」という諺はこの辺から出てきたのではないか。「バッハは語るように弾け」と極めて対照的である。しかし、ワルターはこの自伝の中で、中国の音楽は無意味な単旋律の繰り返しで面白くないと語っている。中国の詩に関心を示した師匠のマーラーには及ばなかったのか。また、ベームは大の日本ひいきであったがワルターは日本とは殆ど交流が無いのは日独枢軸が影響したのであろうか。 今世紀に生きる我々は50年前のB.ワルターの歴史的名演奏の記録をCDで聴くことができる幸せを享受する。その恩師のマーラーの演奏記録はないが、弟子のベームとのモーツァルトの曲を聴き比べ出来るのは楽しい。どちらかと言えば師匠のワルターの方がテンポは速い。しかし第二楽章のテンポはワルターの方が遅く歌わせている。楽譜上では変わらないテンポでも揺らいでいてより芸術的である。これは師匠のマーラーの影響であると言われている。ワルターの弟子のベームは「曲の全体を見てテンポの配分を決める」というのでどちからと言えばゆっくり目のテンポに終始する。テンポの変化の対比はワルターの方が大きいのでオーケストラの音が劣る時でもウィーン・フィルにも優るとも劣らない歴史的な演奏記録を多数残していることは特筆される。指揮者はまたオーケストラの音色も決める。同じ楽団でも指揮者で音が変わるのである。では、この師弟の軍配は?それは言うまでもないことである。マーラーの演奏記録はないが、恐らくワルターも師匠には及ばなかったのではないか? 師を超えるのはモーツァルトのような超天才にしか出来ないことであるに違いない。 |
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「カール・ベーム」〜心から心へ 真鍋圭子著 1982 共同通信社 |
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25 Jan 2010 |
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