再現芸術としての音楽

music forum

Ky-177

Music as art of performance

音楽は再現できるという点で他の芸術とは異なる要素を持つ。例えば絵画では真似て描けばイミテーションに過ぎないが、音楽では指揮者、ソリストと楽団で幾通りもの再現が出来る。同じ演奏者でも日によっては全く別の表現が出来る。作曲家は音の配列を指示しているだけであって、その時系列の定数までは規定していない。AllegroとかLarghettoとか速度の指示はあるがそれは指揮者によって物理的な速度はみんな異なる。同じにしようとしてもその日の音楽ホールの温度、湿度、聴衆の数でも音は違って来る。それ故に音楽は再現されるために書かれると言える。作曲者の初めの意図も完全には分らないのであるから指揮者、ソリスト、楽団の各演奏者の感性と解釈によって再現が決まるのである。即ち、絵画には本物は一枚しかないが、音楽には同じ作品を再現する本物が幾通りもあるということである!これは本当に信じられない位凄いことではないかな。こんな芸術は他にはない。音楽だけが唯一の時間の芸術であるからである。
さて私が担当している番組で、K.ベームとB.ワルターの指揮を比べたことがある。モーツァルトのK525の「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」であるが、ベームは作品全体を見渡してテンポの配分をしているのでテンポの任意の変化は少ない。ワルターは「
歌うことを音楽の本質」と考えているので、ここぞと言う時には任意にテンポを速くしたり遅くしたりして歌い切る。オーケストラはVPOとCSOの差はあるが、ワルターの方が線は太くコントラストも大きい。ベームはより繊細ではあるが感情の起伏は抑えている。ワルターのほかにR.シュトラウスからの影響もあるであろう。ワルターはその師である偉大なマーラーの薫陶を受けたので、ロマン派の真っ只中にあってモーツァルトを見出した天才の師の直伝のものがあると思われる。従ってワルターとベームは師弟であってもモーツァルトを再現する時はそれぞれのモーツァルトを演奏する。聴くものは、多彩なモーツァルトを聴く楽しみに包まれる。
ワルターは言われた。「
モーツァルトは50歳を過ぎなければ演奏できない」と!確かに彼自身も若くからモーツァルトを演奏して来た歴史があるので実感がこもる。ベーム以降の指揮者のモーツァルトはあまり聴いていないが偶に聴くと大先輩たちとの差を感じてしまう。では何がその差をもたらすのか。それは取りも直さず先生の差である。どんなに才能がある人でも良き師に付かなければそのあり余る才能を100%以上発揮できない。イチローと仰木監督の出会いもその良い例である。ベームもワルターも世界最高の先生に恵まれた。だからそれぞれの才能を発揮できた。では、ベームはワルターを超えたのか? それは疑問である。どちらも本物のモーツァルトを聴かせてくれたが、弟子が師匠を超えた例は古来珍しい。その例外はモーツァルト自身だけではないのか。モーツァルトはその父と師匠のハイドンの一部を超えたであろう。ハイドン自身が父にそのことを証言している。
音楽に限らず、人生は良き師に出会わなければ才能を発揮することはない。その師自身が良き師に付いて修行して来たからである。如何に成功しても自らの才能だけで伸びたと考えるのはおこがましい。誰しも最初の師は自身の両親であろう。モーツァルトは父を超えたがヘンデルやハイドンの様なオラトリオは書いていない。オペラでは最高の作品を残している。オペラでは師たちを超えた。バッハはオペラをあまり書かなかったが、
モーツァルトでさえバッハを超えたとは言いがたい
良き師に巡り合うのはどうすればよいか。それは自らの限界まで単独で辿り着く必要がある。常に求めていなければ出合うことは有り得ない。歴史上に残る偉大な天才たちはこうして良き師に出会った幸運の人でもある。ましてや我々凡人は良い先生に出会うことが出来なければ未来は有り得ない。よくよく心すべき事である。

弟子は師を超えられるのは有り難しただ一人だけ例外もある!

No man could have achieved over his teacher exept alone Mozart !

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15 Aug 2009

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W.A.Mozart: "Violin concerto Nr.3 & 4" Z.Francescatti & B.Walter CSO 1958

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NEW OPERA FROM KYOTO

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