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Makizou Nakagawa, the world oidest record of conductor |
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中川牧三先生は1902年に京都市に生まれた。1910年よりヴァイオリンを学び、1920年から声楽と指揮を本格的に始める。ベルリン国立高等音楽学校、ミラノ国立音楽院、国立スカラ座歌手養成所、南カリフォルニア大学などで学ぶ。イタリア、アメリカでテノール歌手として活躍後、1934年に帰国。第二次世界大戦中は、中国派遣軍総司令部参謀部付幕僚および上海陸軍報道部スポークスマンとして上海での日独伊外交を遂行。終戦時にも上海に残り、困難な戦後処理に当たった。帰国後は戦後の日本にイタリアオペラを実現する一方で、国際水準の審査で名高い「イタリア声楽コンコルソ」を創設。105歳まで現役の音楽家として活躍した。特に2004年京都コンサートホールで101歳で世界最高齢指揮記録を達成する。この記録は何世紀も破られないのではないか。2008年3月18日惜しまれながら神戸市で逝去された。享年105歳であった。これは「101歳の人生をきく」という中川牧三先生と河合隼雄先生の対談集に載っている略歴である。河合先生も既に故人となっているのでこの著作は中川牧三先生に関する最後の出版となった。 中川先生がお生まれになった京都ではお近くに近衛家の屋敷があり、お母様がよく近衛邸に出入りしていた関係でお父様が近衛秀麿先生に師事する様にお願いしたご縁があったという。近衛先生に付いて当時のドイツに留学してフルトベングラーからも学んだ経験を持つ。フルトベングラーは気難しい人で余程の者でないと面会も出来ないのに、「プリンス近衛」の異名を持つ近衛秀麿先生の七光りで会うことが出来たし、ベートーベンの交響曲の編曲総譜まで筆写させてくれたという。ベルリンではその当時に斉藤秀雄さんも来ていた。しかし、イタリア人の先生が「声楽をやるならイタリアに来なさい。ドイツではベルカントは歌えない」と言われて、ミラノに移った。一年でも二年でも基本発声練習しか教えないそうで、発声できる喉と身体を造ってからでないと歌わせない厳しい訓練を受けた。そこでマリオ・デル・モナコ と共通の先生に声楽の基本を教え込まれた。その事が判明したのは大分後のことらしい。上海では日本陸軍司令部のスポークスマンとして活躍し、朝比奈隆さんを上海に指揮者として呼んだ。中川先生は賛美歌を歌いたくて同志社大学に進んだが、当時の京大オーケストラは関西の中心的な楽団で同志社の関係者も多く参加していた。そこで前回お話したエマヌエル・メッテル先生が京大オーケストラの常任指揮者をしていたのである。同志社でも楽団を造られた。 |
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10 Jan 2009 |
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