エマヌエル・メッテル

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Ky-172

Emmanuel Metter

2009年の正月は世界同時不況と寒波で震え上がった異例の新年であった。前年末に私は日本の音楽史上で重要なお二人の伝記を読む機会を与えられた。ロシア系ユダヤ人指揮者のエマヌエル・メッテル先生と101歳で指揮をした世界最高齢指揮記録保持者である、京都が生んだ偉大な音楽家中川牧三先生である。このお二人は共に京都でも活躍されて日本の音楽の歴史に偉大な足跡を残された。若い世代の人々はあまりご存じないので是非ともご紹介しておきたい。今回はメッテル先生について述べる。
1995年にリットー・ミュージック社から発刊された、岡野弁氏の「
メッテル先生〜朝比奈隆・服部良一の楽父、亡命ウクライナ人指揮者の生涯」という450頁にも及ぶ大著がある。インターネットで検索しても書名は出るが何処のサイトでも売り切れとある。それもその筈で私が最後に入手した一人かも知れないからである。3200円の定価がプレミアが付いて8000円近くで購入した。最近に出版された朝比奈隆の伝記、中丸美絵著「オーケストラ〜それは我なり」も併せて読んだ。朝比奈隆は2001年に93歳で最後の指揮をしたのであるが2004年に中川牧三先生が101歳で指揮をされて世界記録を更新した。朝比奈隆は既に山田耕作に次いで指揮者で二人目の文化勲章を授賞している。その時、「これでメッテル先生へのご恩返しが出来た」と述べたという。ではそのメッテル先生とは何者か。是非とも上記の完璧な伝記を読んで頂きたい。
1926年に開局したNHK大阪放送局の専属のオーケストラ、「大阪フィルハーモニック・オーケストラ」の指揮者としてハルピンから来られた。来日早々に京都大学オーケストラの常任指揮者も引き受けている。東京高校で学んでいた朝比奈隆はメッテル先生が京大で指揮をしていると聞いて京都大学に入学した。ここで二人の運命的な出会いが実現したのである。メッテル夫人のエレナ・オソフスカヤさんは宝塚歌劇団でバレーを教えた。メッテルはリムスキー・コルサコフが院長を努めたペテルブルク音楽院に学んだが、コルサコフの弟子のグラズノフに師事した。京都でも大阪でもコルサコフの「和声学」のテキストを使用して楽団員に徹底的に教え込んだ。特に実習を重視して弟子たちに何通りもの回答を用意させた。東京音楽学校でもまだそこまで教えられていなかった時代である。その特訓を受けた弟子に朝比奈隆と服部良一がいたのである。メッテル先生は厳しくて決して妥協しなかったという。出来るまでやらせるのと巧みな日本語で相手を完全に打ちのめす教え方である。東京で当時の新交響楽団(現N響)を指揮したとき、練習中に「アンタラ京大生ヨリ下手ヤ!」と言い放ったという。京都と大阪の練習でも、毒舌を伴う教鞭を取り続けたが意外とユーモアもあったと言われている。メッテルは朝比奈隆に「一日でも長く生きて、一回でも多く指揮せよ」と教えた。そして朝比奈はそれを実現したのである。因みにメッテル来日の35年も前にペテルスブルク音楽院でリムスキー・コクサコフに師事した日本人がいる。金須嘉之進という仙台の人で後の古関祐而の恩師でもあるという。
何人も良き師匠に出会わなければ持てる能力を発揮できないことは明白である。
この著書にはメッテルが日本で指揮した全ての曲目が演奏日時と共に完全に記録されている。著者の岡野弁さんも京都の人で同志社大学を卒業して新聞記者として音楽評論を担当された方である。その作曲家の内訳をみるとベートーベンが46回、チャイコフスキーが36回、グリークが34回、恩師のグラズノフが34回、スヴェンセン17回、コルサコフ17回、サン=サーンス16回、ボロディン14回、ビゼー13回、ブラームス12回などとなっていてモーツアルトは8回に留まっている。この選曲は昭和前半期の日本のクラシック音楽の傾向に少なからぬ影響を与えたと考えられる。私が学んだ1960年代の京都ではベートーベンが一番好まれていた。21世紀の現代日本ではモーツァルトが既にベートーベンを逆転しているのは生誕250周年や音楽の「癒し効果」が重視される音楽の原点を求める世界の潮流によるものと考えられる。メッテルはウクライナで生まれたのでロシア系の作曲家を多く採用したのは止むを得ないであろう。日本の和声学の基礎が本場のドイツやイタリアからでなく、音楽後進国のロシア経由であったことはどの様な影響を与えたか。メッテルは、日本はロシアより更に後進国なので、ロシアの取り入れ方は返って参考になると主張していたらしい。それは昭和元年から14年までの15年間であったが、メッテルは日本にクラシック音楽の基礎を与えて戦雲急なる太平洋を渡って米国に再亡命した。そして二年後の1941年にロスアンジェルスの西ハリウッドで死去した。当初は医学部に入学したハリコフ大学の資料では1878年生まれとなっているので享年63歳である。エレナ夫人はメッテルの没後も23年間生きて83歳で同所で没した。現在は同じ墓所で仲良く眠っている。
エマヌエル・メッテル、この亡命の天才指揮者は日本のクラシック音楽界に巨大な足跡を残して去った。日本にとってはロシア革命が生んだ奇跡的な幸運であったと言えよう。
一方の中川牧三先生はドイツとイタリアから戦中戦後の日本クラシック音楽の新たな基礎を導入するのである。それは次回に述べる。朝比奈隆と服部良一は誰でも知っているが、その師匠のメッテルは誰も知らないのではないか。岡野弁さんはウクライナやロシアから米国まで調査を行い完璧なメッテル伝記を書かれた。その20年以上を費やした歴史的な著作に対して感謝の念に堪えない。メッテル夫妻が横浜港から貨物船で米国へ旅立つ時に弟子たちが見送ったが、メッテル先生は最後に、「
ハットリサン、テンポ、テンポ!」と叫んで何時までも白いハンカチで三拍子を振ったという。余りにも感動的な惜別ではないか。服部良一は笠置シズ子と1950年にロスアンジェルスで公演したが、エレナ夫人に会えなかった。歴史の偶然と悲哀を感じざるを得ない。

つかの間の陽射しの元に生まれたる幼き芽をば摘むこと勿れ!

Not to decay young bud which had been borne under the short sunshine !

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2 Jan 2009

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