現代音楽の自己矛盾

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Ky-171

Paradox of modern music

西欧音楽の歴史はバロックから古典派へと発展してその基礎を築いたあと直ぐにロマン派に引き継がれた。20世紀初頭には既に現代音楽の時代に達していた。ロマン派の時代にはまだ調性も継承されており古典派の香りも一部に残っていたが、ドビュッシーから一気に平均律と無調音楽へと傾斜を強めた。21世紀の現代はコンピューターを駆使する時代になっているが理論的には平均律と無調が基本になっている。地域性が無くなり何処の国の音楽も大差がないのは何故か?個性を全面的に主張したロマン派の伝統は現代音楽では失われたのか。コンピューターは画一的で個性を認めないのが欠点である。何れにしても現代音楽は音楽の伝統を見失ったまま崩壊と混沌の中にあることは確かである。それは1950年代以降に聴くべき純粋音楽作品もそれを担う作曲家も現れていないというこの500年では珍しい不毛の時代を迎えていることで証明されよう。
バッハが基礎工事をしてモーツァルトが華麗に開花させた古典派音楽は、しかし、何故に現代でも普遍的な価値を持つのか。完全な形式と調性を駆使して優雅な古典音律で奏でる音楽に現代人は今も心酔することが出来るのは何故か。ホルストの「惑星」の冒頭部分以外には聴く価値がないと現代人も感じているし、R.シュトラウスの「ツァラトストラはかく語りき」も途中で聴くのを止めざると得ないのはどうしてか。それは誰も十分には答えられないが、古典派音楽の形式を破壊することが進歩の様に考えて来た近代音楽に歴史的な過ちがあったのではないか。形式を壊しておいてその内容がそれを補うだけのものが無かったのではないか。壊れたままの容器に盛り付けた料理を誰が美味しいと言って食べるだろうか。味さえ良ければよいという人でも味も悪ければ誰も食べようとは思わないのではないか。現代音楽の現実は料理で言えばこんな状況にあるのではないか。
モーツァルトは自らのために作曲した作品は殆どない。皇帝や貴族と市民から依頼されて作曲するのを職業とした最初の作曲家である。あくまで依頼主のために作曲したと言うことである。つまり聴く人々のために作曲したのである。ロマン派に到ってからは作曲家は芸術家となり自らの芸術主義のために作曲した。聴衆は芸術家の作曲した作品の演奏をお金を払って聴きにいく時代となったのである。それでもロマン派は多士済々であったからあらゆる異なる個性のぶつかり合いに百家斉放の観があった。R.シュトラウスの生涯は最後のロマン派の巨匠としての苦悩が感じられる。ワーグナーに傾倒して楽劇を書いたが晩年はモーツァルトの歌劇に回帰して「ばらの騎士」などを書いたことはよく知られている。リストが1885年に「無調のバガテル」を作曲して初めての無調作品を世に出して1917年のシェーンベルクの12音技法による「浄められた夜」で無調主義は完成したと同時に西欧音楽の400年の華やかな歴史も終焉を迎えたのである。
では21世紀の音楽はどうあるべきなのであろうか。そんな大それたテーマは誰も軽々しくは語れない。現代に生きる作曲家や音楽家はそれを模索しつつもまだ誰も古典派やロマン派に匹敵するような新しい音楽体系を作り上げることには挑戦出来ていない。否、それは不可能なことかも知れない。現代の作曲家は誰のために作曲しているかと言えば、それは自らの芸術理論のために作曲しているとしか言えない。聴く人のためには作曲していないのである。それにも拘らず高いお金を払ってまでも現代作曲家のコンサートを聴きに行く人も少数いるにはいるが現代音楽は小さい同好会的集団に閉じ篭っているとしか言えない。モーツァルトの時代とはえらい違いではないか。ヨーゼフ二世がモーツァルトに命じた作品でも王自身の好みもあろうが国民のためになる作品を要求したのではないか。モーツァルト自身も芸術家の一面は敢えて出さなかったのである。最晩年の1791年の秋に初めて自分の思い通りの作品を書けたらなあと述懐したと伝えられる。
現代音楽が一時代を画する様な時代にいない事は明白である。それ故に古今東西の音楽が混在して演奏されているのが世界の音楽事情である。モーツァルトの四大オペラも今なお現役の第一線にある。それは素晴らしいことではないか。この400年の間に生まれた無数の作品に混じって、名もない現代音楽家の実験作品も演奏会を開いている。玉石混交の現代はある意味では豊かであると言ってもよい。荘子先生は言われる。「
今は昔であるし、昔は今である」と!現代音楽が何処へ行くのかは予想できないが、人々は自分が聴きたい音楽を聴けばよいのであって芸術家の自分勝手な作品もよしと思えば聞けばよい。モーツァルトが好きな人はモーツァルトだけを聴けばよい。現代音楽の定義を無理に作り上げる必要もない。作ったところで時代を画する様な作品が生まれる保証もない。ブラームスはベートーベンを超えることが出来たか。またベートーベンはモーツァルトを超えられたか。答えは何れも否定的である。古典音楽形式を壊すことを主題としてきたロマン派の時代も遠くなった。壊し尽くして見れば元も子も無くなっていたのである。現代音楽は混沌の中にあるが混沌は宇宙のように新しい価値体系を生み出す前兆であれば、むしろ歓迎してもよいのではないか。

玉と石ひとつの皿におり交ぜて箸もスプーンも使う料理か?

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18 Sept 2008

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