台本、作曲、演出

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Ky-166

Libretto, Composition, Direction

ワーグナーの「ニーベルングの指環」四作は15時間を越える超大作である。作曲者のリヒャルト・ワーグナーはその台本、作曲、演出、舞台、衣裳から制作までを一人で敢行したと言うから尋常な天才ではない。モーツァルトでも一人でオペラを制作したことはない。台本作者と作曲者と演出家は別人であることがオペラの制作では基本である。異なる個性の競合で作品はより精彩を放つものである。制作の順番はまずは台本が無ければ作曲も出来ない。台本と作曲が完成していなければ演出の仕様もない。それ故に台本、作曲、演出の順番で制作を進める。新作品の場合は三つの作業を同時進行で計画することも出来るが、歴史的な作品は既に台本と作曲が完成しているので後は演出次第と言うことになる。この正月休みに「指環」四作を2002年のシュトゥットガルト版と1989年のミュンヘン版、および1990年のメトロポリタン版を視聴したが、四人の監督が別々の演出をする第一の舞台は現代の装置と衣裳であるが、一貫性がなく配役の識別にも難点がある。N.レーンホフ演出の第二は舞台こそ宇宙船という超現代的であるが衣裳は伝統的でより解り易い。第三のオットー・シェンク演出の舞台は最も写実的で解りやすい。音楽はW.サヴァリッシュのミュンヘンが、L.ツァグロゼックのシュトゥットガルトとJ.レヴァインのニューヨークより抜きん出ている。第二と第三の舞台の「ジークフリート」と「神々の黄昏」の最終幕で歌うワーグナー・オペラのソプラノであるヒルデガルト・ベーレンスの絶唱は圧巻である。ジャン=ピエール・ポネルとフランコ・ゼフィレッリに代表される1980年代を頂点とするオペラ演出の写実主義は現代ではもう見られない。勿論、ゼフィレッリは80歳を過ぎて今も尚現役である!同じ台本と作曲であっても演出によってオペラは別の作品の様に生まれ変わる。この点でもこの二人の演出は傑出していた。ゼフィレッリの「アイーダ」の演出は40年以上も踏襲されている。1990年代以降の象徴主義や抽象主義的な演出は解りにくい。原作との時代が離れすぎて演出にも無理があることが多いがその時代錯誤もまた面白い。しかし私はポネル=ゼフィレッリの写実主義路線を支持する。舞台装置や衣裳では、写実主義の方が経費はかさむのであろうが、「魔笛」を舞台一面のマット一枚で演出したのを見たが、幾ら経費節約になると言っても面白くないし物語を知らない観衆には解らない。台本は作曲者が作曲し易い様に、多様な演出が後世に可能な様に書かれなければならない。それにはオペラで扱う物語が基本的には単純明快であり、起承転結がはっきりしていなくてはならないと考える。また、物語とは主人公の出生から死亡までを書くのを原則とするが、せめて「出会いから別れまで」は書かなければならない。途中から書いているので見ていて分からないオペラ作品が多い。京都オペラでは、平安時代の「歌物語」の伝統形式を尊重して必ず出会いから別れまでを描きたいと考えている。成人までを省略して「昔、女ありけり」で始まる物語は多いからである。
オペラ・セリアでは主人公が最後に死ぬ場面が多いのは問題である。モーツァルトの四大オペラでは主人公が死ぬのは「ドン・ジョヴァンニ」だけである。それもスカッとした明るい死に方であるから暗さがない。この意味でもオペラ・ブッフォの方が楽しくて良い。既に所有しているオペラDVD全集の全作品を総見しているが、悲劇的な結末で終わるオペラは見終わって疲れる。その原因を色々分析してみたが、所謂「劇的三角関係」の論理を抜け出ることがないからであるとの印象を受ける。「一人の女を二人の男が決闘して争う」という動物界での掟をそのまま踏襲しているとさえ言えるのである。何故主人公が死ななければならないのか? 私は若い頃から疑問に思って来た。この
Dramatical Triangleという陳腐な劇的論理に代わるものはないのか? 西欧思想で言う「愛」とは何か? また「裏切り」とか「復讐」とかのテーマが余りに多すぎる。京都オペラでは、東洋思想によるもっと深遠な「愛」や「道」をテーマにするべきであると考える。音楽形式や音律論とともに、非弁証法的な劇的論理に拠らなければ西欧のオペラと同次元のものしか書けない。今西錦司博士が提唱した「住み分け理論」はこの問題の解決に大いに役立つと信じている。ダーウィンの弁証法的な「進化論」では説明できない生物界の現象を「住み分け理論」は多くを説明できた。オペラではやたらに「愛」がテーマになって来たが、西洋的な「愛」はエロスからアガペーまで階層的に設定されている。一見明快な様であるが、それでも何故主人公が死ななければならないのか分からない。「愛の為に死ぬ」のは如何なる意味があるのか? 江戸時代の近松門左衛門の歌舞伎では「心中物」が流行した。これは西欧の悲劇的オペラと共通するものがある。旧憲法では女性にだけ「姦通罪」が規定されていたが、戦前に滝川幸辰京大教授がその男女不平等を指摘して大学を追われたが、戦後には京大総長に迎えられた。オペラや歌舞伎においても歴史的な作品には「男尊女卑」の慣習がテーマになっている部分については耐え難い嫌悪感を覚える。現代の作品として演出する場合は、その様な現代憲法に違反する部分は削除せざるを得ないと考える。「魔笛」でさえ「女は男が指導しなければ勝手なことをする」とフリーメイスンの規定をザラストロが歌う場面がある。この箇所は現代社会では受け入れ難いのではないか。「愛」や「復讐」のために主人公が死ななければならない結末は21世紀以降のオペラでは採用したくない。女性を娘、妻、母という社会的な枠内に封じ込めるのも時代遅れである。同時に男性の息子、夫、父という社会的な分類も古いのではないか。現代社会では一人の女性であり男性であることをお互いに認めるべきではないか。そうすれば「愛」と「復讐」のために主人公が死ななくて済むのではないかと思う。敵も味方も、主人公も恋敵も、神々も人々もこの宇宙で平和共存することは出来ないのか?その様なオペラの舞台を期待している。この意味でもモーツァルトの「フィガロの結婚」は素晴らしい! 
ワーグナーのオペラ作品を集中的に視聴したら、考えが変わるのではないかと思っていた。壮大な構想の元に26年を掛けて完成させた「指環」はゲルマン崇拝の叙事詩である。気宇壮大な神話であるのは良いが、かってナチスが利用したこともあり、その演出では注意を要する。ジークムントとジークリンデの兄妹が結婚してジークフリートが生まれた。そのジークフリートが叔母のブルュンヒルデと結婚するなど近親相姦を容認する仕組みになっている。また重婚や裏切り、陰謀と術策が入り乱れる。主神であるヴォータンの正妻のフリッカには子がないのかエルダという知恵の神に九人の女子を生ませたのがヴァルキューレであり、その長女がヒロインのブリュンヒルデである。物語は複雑で解りにくいだけでなく自己撞着も見られる。15時間オペラのフィナーレは主人公のジークフリートもヒロインのブリュンヒルデも、天上の神々の一族も、地上の巨人族も、地下の小人族も、三つ巴に争って最後には全てが消滅する。残ったのはブリュンヒルデからラインの水の精達に返された指環だけである。指環は権力の象徴として登場し、それを持つものは全て呪われて死ぬという設定であリ権力者の運命を暗示している。ワーグナーはこの混沌のドラマに何の希望も示さなかった。その言葉にならないメッセージは現代にも送られている。その解答は我々自らが探さねばならないが、やはり全てを一人で制作することの限界も示している。全編を通じて流れる音楽はワンパターンではあるが素晴らしい。
ライトモチーフによる循環形式は壮大な叙事詩に相応しい作曲法であると脱帽する他はない。登場人物と情景にそれぞれライトモチーフが設計されていて、精密部品を組み合わせる様に自由自在に合成と編曲がエンドレスに繰り返される。「さまよえるオランダ人」から始まったと言われるライトモチーフであるが、「指環」に至って完成されて「楽劇」はその頂点を極めた。ワーグナーのオペラはどの作品も凄まじいの一語に尽きるが、モーツァルトが開拓したドイツ語オペラはウェーバーを経由してワーグナーで完成されたと言えよう。同時にモーツァルト達が完成させた古典形式の作曲法はワーグナーによって破壊されて遂には無調音楽へと導いたと言える。そしてシェーンベルクに到って西欧古典形式は終焉を迎えたのである。それ以降にはこれというオペラ作品が生まれていない。無調になることで音楽はその創造力を失ったのではないか。それ故に新しい京都オペラでは東洋音楽的な音律論が必要になる。日本語に最も相応しい音律と音階を開拓しなければならない。それにしても、ワーグナーを聴くと頭は重くなる。モーツァルトを聴くと楽しくなる。これは事実である。

この音は夢かうつつか幻か、幾代を越えて響き渡らん!

Dream or reality nor illusion, this Tone shall sing over centuries !

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1 Jan 2008

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R.Wagner: "Der Ring des Niebelungen" by Munchen Staatsoper 1989 W.Sawallisch

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