|
|
|
|
Sea and River |
|
久しぶりにドビッシーの「海」を聴きました。バッハからモーツァルト時代の音楽を聴き続けて来た耳には新鮮に響きましたが、調性の時代が終わる20世紀初頭の曲がり角に居たのがC.ドビッシーであります。音律と音階の研究をして五音音階だけでなく、六音音階や東洋の音階も研究した。「独立和音」を創設して調性から離れて自由に作曲したのは歴史的な意義があると思います。その約20年後にシェーンベルクが「十二音技法」を完成させて、バッハからモーツァルトまでの時代に完成された古典音楽の調性は終焉を迎えた。そして現代の混沌の時代へと続いている訳であるが、ドビッシーは極めて重要な役割をしたと考えられる。彼はまた今日の「平均律」の普及にも貢献して現代までのピアノの平均律化を決定づけた。それはピアノの普及には貢献したが、モーツァルト時代の古典音楽との決別を意味する。この「海」の繊細で美しい自然描写の音楽を聴いていて色々と考えさせられる事がある。 果たして現代音楽の様に「調性」を否定することが真に進歩的な音楽であろうか?調性理論で作曲することが現代では時代遅れなのであろうか?私はそうは思わない。古典派時代よりは規制の緩和は必要であるが、調性が必要でないとは考えられない。ドビッシーの「独立和音」の発想は極めて優れていると思う。モーツァルト自身も転調を目まぐるしく行い、事実上の無調音楽に近い作品も書いている。私自身は調性を基本的には尊重しながら、もっと自由に音階と和声を選びたいと希望している。そして音律に関しては、各民族固有の音律を尊重したい。平均律を音楽のグローバルスタンダードにするのは反対である。現代の世界の情報革命の様に各民族の個性を否定する様な政策には同意できない。コンピューターは日進月歩している。昨日出来なかった事が今日には実現する時代である。非平均律の音楽もコンピューターなら簡単に設計できる時代に突入している。これは神が人間に与えた史上最高の贈り物であろう。将に「電脳」である。その発達の速度と可能性は無限に近い。 さて、「海」を聴いて思い出すことがある。今から45年も前に私は京都で、パリ管が演奏するこの曲を京都会館で聴いた。指揮者はA.クリュイタンスであったと記憶している。その見事な演奏に幸福感を抱いたことを今でも覚えている。京都は他の音楽の都と同じく山の中にあるから海がない。その代わりに川は流れている。海と川は流れるテンポとリズムが根本的に異なる。海の波には周期的な繰り返しがあるが、川は一定のリズムであまり変化せずに流れ下る。これを音楽で描写すれば全く別の音楽になる。海の音楽と川の音楽は根本的に違うことに気付かされる。しかし、川と言っても京都の鴨川と中国の揚子江や黄河はまた規模が違う。中国の大河に京都の鴨川の繊細な美しさを求めることもできない。大河が流れ下るのは何人も押し止めることのできない歴史の流れである。そのエネルギーは海と優劣を争うことができる。リストが創始した「交響詩」はロマン派音楽の真髄であろうが、ドビッシーの「海」はまさにその傑作であることに相違ない。そこで自問自答する。京の鴨川をスケッチするとどんな音楽になるのか?やはり今のところは箏や三味線の奏でる邦楽の域をでられない。では、君は京の鴨川を交響的スケッチが出来るのか?答えは否である。いや一度は作曲してみたい。嵯峨野の大沢の池や広沢の池の畔で何らかの曲想は浮かばないのか?それは幾らでも浮かんでくる。バッハとモーツァルトをよく聴いた上で、交響詩を聴いたあとで、シェーンベルクの「無調音楽」を聴いてから作曲して見たらどんな作品ができるか?それは興味は尽きない。海も瀬戸内海の穏やかな「春の海」もあれば太平洋の雄大な海も、北海の荒れ狂う海もある。京都の自然は将に「箱庭」のように洗練されていて、日本文化の源泉が今も生きている。21世紀のこれから日本人が作曲する新しいコスモポリタン音楽は可能であろうか?古典派、ロマン派から現代音楽へと流れる西洋音楽の伝統を取り込んで日本や東洋の音楽との融合は可能か?21世紀に於ける新古典主義音楽の夢は拡がるが前途は多難である。音楽を研究して45年を越えたが結論はまだ出ない。「非平均律五音音階」を用いて何処まで作曲できるか?コンピューターと相談しながら研究を続けたい。 |
||
|
||
|
|
30 Sept 2007 |
|
|
||
|
|
|