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Formula di Cadenza |
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音楽作品を作曲する方程式などはあるのでしょうか。モーツァルトならそんな事は考える必要もないでしょう。でもバッハは形式至上主義と言えませんか。ベートーベンも理論的な構築をして作曲したのではないですか。600年も前の室町時代の初期に世阿弥は「風姿花伝の書」という、世界最古の舞台芸術論で日本美学の最初の集大成を後世に伝えました。代々の宗家に秘伝の書であったので、20世紀まで宗家以外の人は誰も読んだこともありませんでした。モーツァルトから見た世界の音楽の歴史を探検する番組を2006年10月から放送していますが、クラシック音楽にはソナタなどの音楽形式が重要であり、名曲はその形式も完全であることに気づきました。そうであるならその音楽形式を規定する方程式はあるのかという疑問も湧いて来ます。古今東西の音楽形式を解析する方程式は可能であるか。夢みたいなお話ではありますが、本人は真剣であります。45年間の仮の結論の方程式はE=C’Tというのが私が立てている式であります。これは因果律のY=F(X)や相対性理論のE=mc2のように、「真理は単純である」という芸術でも科学でも共通の事実があります。それならば音楽形式の方程式も単純な方程式で表現できないかと長年模索して参りました。それがE=C’Tであります。EはEffectで効果や結果を表しています。CはCompositionで構成や形式を意味します。TはTempoであり、’TはTの微分形でテンポの微細な変化を意味しています。即ち、音楽芸術では「テンポが全てである」という単純な結論に基づいています。他の分野の芸術と比較しても音楽ほど時間的要素が決定的な芸術はありません。それ故に作曲に於いてはC、即ち音楽形式とT、テンポの設定が根本的に重要であるとの仮結論に到達したのであります。音楽形式は古典形式の通りである必要はありません。新しい音楽形式も自由な音楽形式もあって良いと考えています。しかし、テンポの問題だけは永遠に解決不可能な問題を内包しています。何故かと言うと、作曲家がLarghettoと指定しても、演奏家は演奏する時間、場所、気温、湿度、ホールの大きさ、聴衆の人数、楽器の種類などによってもテンポを常に微調整しなければなりません。同じ指揮者とオーケストラと独奏者であっても、公演ごとにテンポは同じでは有り得ません。その精度は0.01秒のオーダーで変化しているのであります。カラヤン先生は、「自分のテンポを確立するのに50年は係る」と言われたと聞いています。テンポの設定はそれほど難しいのであります。もし同じテンポで演奏出来たと仮定しても、音の伝播速度は時々刻々変化しています。何万回演奏しても一回として同じテンポの再現は不可能であります。ここに音楽作品のテンポ指示が音楽用語で表示される理由があります。Larghettoと表示があれば、千人が千人とも再現するテンポは異なります。そして同じ演奏者に於いても一回として同じテンポの再現は不可能であります。物理学的に何分何秒で演奏しなさい等と言う指示は出来ないのであります。私が初心者以外には、「メトロノームを使ってはならない」と申し上げている理由がここにあります。音楽の作曲と演奏で最も重要で難しいのがテンポであることを理解して頂きたいために繰り返し申し上げて来たのであります。それほど微細なテンポの変化を聴き分けることも容易ではありません。また、「聴けなければ弾けない」ということも現実的にあります。即ち、「聴けるところまでしか弾けない」と言い換えることも出来ます。名曲の名演奏でも、一人として同じ長さの演奏時間はありません。モーツァルトのピアノ協奏曲は三楽章形式であり、例えば第一楽章はアレグロ、第二楽章はラルゲット、第三楽章が再びアレグロの表示がある基本的な協奏曲では約30分に対して30秒から3分もの差があります。モーツァルトがどれ位のテンポを意図していたかは永遠に分かりませんが、名演奏はそれぞれ他の演奏とは全く別の音楽世界を形成しています。「音楽は時間の芸術である」と云う規定は、こうして多くの名演奏を可能にして来たのであります。他の芸術では再現も出来ないし、もし出来たとしたらそれはイミテーションでしかありません。「音楽は時間の芸術である」という定義は厳然として、作曲者と演奏者と聴衆の前に等しく立ちはだかっている未踏峰であります。 音は一度流れると元に戻すことが出来ませんし、やり直すことも出来ません。ですからその時乗ったテンポは訂正が効かないのであります。テンポは音楽にとって決定的であり全てであります。それ故に、聴く者は美しい音楽形式によってテーマや旋律を繰り返し聴きたいと願うのであります。録音手段を持たなかった19世紀以前の時代には、ダカーポで繰り返し演奏するのが通常でありました。オペラでは度々アンコールで劇的進行が中断されることは当たり前であったのであります。このことは録音録画技術が普及している現代でも変わることはありません。同じ楽章を繰り返し演奏しても、同じテンポでは有り得ません。このことが音楽芸術の深遠なところであります。演奏は何と言っても生演奏に限ります。CDを何百回聴くよりは舞台で一回聴く方が遥かに意義があります。将に「百聞は一見に如かず」であります。CDはその物理的特性からも、実際に演奏された音程、音量、和声の分散値の極く一部しか記録できていないのでありますから、生演奏に叶う筈もありません。まだ、精度は下がってもLPの方がアナログですから幾らかは多く拾っている筈であります。私が学生時代の45年前に感動したLPと同じ演奏記録をCDで聴いても感動が戻って来ないのもこの辺に理由があると考えています。更に言えば、聴く方の体調や生理学的条件の変化と云う要素も忘れてはなりません。年を取ると耳は肥えて来ますが、感性は鈍ることはないでしょうか。聴く方も肉体を持つ人間ですから、毎日同じ条件ではありません。あらゆる理由と条件により、「音楽は時間の芸術である」との結論に到達するのであります。この結論に反論出来る人は誰もいないのではないでしょうか。 Formula di Cadenzaとは「花伝書」のKadenの音をなぞったものであります。Cadenzaはイタリア語で調子、拍子、歩調などを意味しますので、名人芸を披露する独奏部分の音楽用語と共に音楽方程式の用語として採用しました。E=C’Tという最もシンプルな方程式にE=mc2の様な無限のエネルギーが内包されているとすれば、モーツァルトはその反応式をアインシュタインの様に同時代と後世の人類に解放して見せたのではないでしょうか。現存している楽譜には音符を訂正した箇所は殆どないのに、テンポの指示は何度も書き直している跡が残されていることは、モーツァルトが如何にテンポを重視していたかを証明しているのであります。そして、バッハの単純で規則的な旋律の繰り返しの変化に新鮮な驚きを感じます。モーツァルトはマッターホルンの様に聳え立っていますが、バッハはモーツァルトの様に一つの方向に分化していないので音楽の源流であり続けると思われます。ゴシック様式からバロック様式へ、また古典派からロマン派へと変遷して現代音楽に到っています。バッハが開拓した平均律は200年後にシェーンベルクが12音技法に発展させると同時に、調性の理論は終焉を迎えました。21世紀以降の音楽は何処に行こうとしているのでしょうか。古今東西の音楽の歴史を遡る探検の途中でその方向を見出せるか、五里霧中の旅は続きます。 |
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23 Apr 2007 |
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