音楽と言語

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Ky-161

Music and Language

オペラを含む音楽劇において最も重要なことは、音楽と言語との調和ということであります。これまでに何度もご報告しました通り、明治初期の音楽取調掛の仕事は西欧の音楽を採集して来て、これに日本語の歌詞を付けるというものでありました。滝廉太郎はそのことの限界と不自然さを早くから指摘して「国楽」運動の先頭に立ちました。彼の残した僅か45曲は、音楽と日本語歌詞の整合性を初めて研究した輝かしい成果であります。「荒城の月」、「花」、「箱根八里」などは今でも日本歌曲を代表する作品であります。23歳で召された滝廉太郎ですが、もしモーツァルト並の35歳まで生きられたら日本の音楽の歴史は現代よりは遥かに進歩していたであろうと容易に推測されます。滝の後輩の山田耕作の弟子である団伊玖磨の代表作品であるオペラ「夕鶴」は日本人作曲の唯一世界で認められたオペラ作品でありますが、音楽と言語の関係はまだ完成された調和には到っていないことは作曲者自らが認めておられたのであります。同じ旋律で二番の歌詞を歌う時に、彼の師の山田耕作は言葉に応じて旋律を変えるべきであると主張したが、団は結局は師の助言は受け入れなかったとのことであります。「夕鶴」の初演の時、山田は客席から団にOKのサインを送ったとも伝えられていますが、「まあ、それでも良いよ」という位のサインではなかったかと推測致します。これほどに日本語の場合は、音楽と言語の整合性ということは根源的に未だ完成していないのであります。声明の影響下に発達した日本の声楽部門は、西欧音楽の様な旋律性を初めから排除して来たのであります。それは「歌う」のではなく、「謡う」と表現して日本人自らもそのことを自覚しているのであります。滝廉太郎が開拓した「国楽」の再興を多いに期待するものであります。
学生時代に日本語に翻訳されたオペラを聴いて強い違和感を覚えたのが、日本語オペラ研究の始まりでした。1963年の未だうら若き20歳でした。私は医学部に所属していたのですが、この疑問を持って文学部の教授先生宅を訪問して教えを受けました。師は「それは日本では容易には解決できない」と言われて、ドイツ語のオペラテキストを沢山与えて呉れました。それから言語学、音楽理論、オペラの研究などを多忙な職業の合間を縫って45年間続けて参りましたが、その師も他界されて久しい時が流れました。何時まで研究しても浅学非才では解決できないことも実感する今日この頃ではありますが、どうしても諦めきれない私の永遠のテーマでもあります。45年間で理解しえた唯一の結論の一つは音階論であります。音楽と言語の調和には、相応しい音階を選択しなければならない。その音階がなければ新しく開拓しなければならないという事であります。こうして最近やっと「非平均律五音音階」に到達できたのであります。しかし実際にこの非平均律五音音階で作曲演奏しようとすると、ピアノを代表とする現代の伝統楽器では不可能なことも直ぐに判明しました。そこで最後に登場したのがDTMと呼ばれているコンピューター制御による電子楽器であります。DTMではどんな音階もいとも簡単に設計することが出来ます。非平均律五音音階でも特に何の困難もありません。こうして研究を始めて45年を費やして得た仮の結論は、「
日本語には非平均律五音音階がもっとも合致する」という単純な事実であります。この音階は雅楽に始まり、この国において官民を問わず千年以上に渡って歌われて来た伝統的な音階と近い因果関係にある音階であります。DTMでは伝統楽器では不可能である自由な周波数設定と音域の拡大が自由自在であります。21世紀の初頭まで待たなければ解決出来なかった技術的な問題を、人類が生み出した人工頭脳である「電脳」が遂に解決したのであります。それ故に21世紀以降の作曲はコンピューター無しには有り得ない時代に突入しています。作曲だけでなく、演奏に於いても、楽譜に替わる新しい作曲ソフトも発明されるでしょうし、記録媒体も革新的な進歩を遂げつつあります。DTMの時代では、作詞者、作曲者、演奏者が分業して来た伝統的な制作過程が一気に変化して、三者を一人で行う新しい型の天才も現れるのではないでしょうか。音楽の長い伝統を尊重しながらも、人類は新しい時代の音楽を開拓しようとしていると感じています。どの様な音楽になるのかは予測出来ません。モーツァルトは人類史上に二人とは出現しないとしても、新しい音楽は生まれる可能性は極めて高いとの希望的な観測をしたいと思います。そして新しい日本語オペラも21世紀初頭には遂に生まれる可能性も否定は出来ないと希望する者であります。
いくら技術革新が進んで作曲ソフトや電子楽器が発達しても、モーツァルトの価値がいささかも減じるものではありません。逆説的に言えば、モーツァルトの音楽はコンピューターでは制作できないと人類は改めで知ることになるでしょう。一人のひとが全てを作るのではなく、三者分業の伝統も返って見直されることもあるでしょう。
伝統音楽を尊重しながらも新しい音楽は生まれなければなりません。そうして百年の星霜を生き延びた作品を初めて古典と呼んで来ました。電脳時代になれば百年は十年で置き換わるのでしょうか。私はそうは考えません。人間には生理学的にも解剖学的にも変え様のない条件を基本的には内包しています。生まれては消えて行く速度は速くなるでしょうが、古典の誕生にはやはり百年は必要ではないでしょうか。音楽と言語の整合性に関しても、電脳時代には新しい知見と創造が提起されることを多いに期待する者であります。

歌うたふ電脳あれど何となく、こころに響く音は聴こえじ!

Computer shall sing a song, but no sounds be listened to heart !

English

26 Mar 2007

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