団伊玖磨:「ひかりごけ」

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Ky-149

Dan Ikuma: "Luminous Moss"

何の予告もなく、大音量の全オーケストラの雄叫びから始まる。無調音楽による無旋律のレチタティーヴォで全曲を埋め尽くす。武田泰淳の原作戯曲「ひかりごけ」の会話部分に団伊玖磨(1924−2001)が作曲したというより音響をつけたオペラ作品である。オペラの伝統的な形式は無視されている。序曲も間奏曲もなければ、アリア、重唱、合唱(一部にはある)もフィナーレもない。この意味ではオペラと言えない様な作品である。むしろ「能」に近い。能に西洋音楽を付けたという表現が当たっている。しかし、並々ならぬ迫力を感じる。全編を通じて緊張感があり、鬼気迫るものがあるので、最後まで息が抜けない。105分の作品であるが気がつけば終わっている。殺すか殺されるかの極限の状況下でレチタティーヴォによる怒鳴りあいが延々と続く。野生動物が吼えるのに近いレチタティーヴォである。武田泰淳の戯曲のテーマが異常であれば、この音楽作品も異常である。400年のオペラの歴史でもこれほど異色の作品は他にはない。長い間「幻のオペラ」と言われて来た。作曲者自身が音楽監督を務めた、神奈川フィルハーモニー管弦楽団によって2002年にすみだトリフォニーホールで熱演された貴重な録音が楽団自身の手によってCD化されて日の目を見た。私も20年間捜し続けてやっと邂逅した。聴く前までは1952年の「夕鶴」以来の革新的な作品と予想していた。「夕鶴」の20年後の1972年に初演されたこの「ひかりごけ」が作曲者によれば、日本語と音楽が最も整合した作品であると伺っていたのである。しかし、その期待は全く別のものであった。この作品には、メロディーは一つもないのである。音楽の形式も何もない。あるのは延々と続くレチタティーヴォと音響だけである。作曲者の師である山田耕作と共に到達した「夕鶴」で、日本語と音楽の整合性という、日本語オペラの根源的な問題は、「ひかりごけ」では放棄されていた。旋律を一切使わずに、謡曲でいう「謡い」に相当するレチタティーヴォで全編を綴ったのである。それでは、謡曲なら日本語と音楽は一致したのではないかと思えば、この作品のレチタティーヴォに付けられた音楽は西欧音楽であり、日本的な音楽ではない。作曲者が好む、どの地方かは知れない関東方言で語られたレチタティーヴォでは、「夕鶴」よりも日本語と音楽の整合性がない。西欧音階で無理に歌っている他の日本のオペラ作品と小異はない。しかし、神奈川フィルの演奏は素晴らしい。現田茂夫指揮の神奈川フィルハーモニー管弦楽団と8人の歌手および二期会合唱団の熱演は特筆に価する。それは現場録音による聴衆の拍手で証明されている。閉幕時の延々と続く拍手は、重たくも感動的な抑制と発散を混合した様な拍手であった。モーツァルトが最も好んだ、控え目で静かな拍手に近いとも言えよう。聴衆は本当に感動するとBravo!とは叫ばない。スタンディング・オベーションで迎えられる様な演出は通俗的なイタリアオペラによく見られる。神奈川フィルのこの日の公演を聴いた人々の家路に着く足取りは軽くはなかったに違いない。
この物語の筋書きについては語りたくない。オペラに人肉を喰らう話が取り上げられる事は空前絶後であるからである。関心のある方は武田泰淳の原作戯曲を見られよ。人肉を喰らった者には、首の周りに闇に光る緑色の苔が住み着くというのである。R.シュトラウスの「サロメ」でさえ、ヨカナンの首は喰らわれはしなかった。日本伝統の怪談の鬼気を感じる。作曲者の団伊玖磨は2001年5月17日に、ご自身の愛する中国・蘇州で77歳で逝去された。日本は戦後最高のオペラ作曲家を失った。この国家的損失を埋めるには100年以上を要するであろう。オペラ「ひかりごけ」の後にも沢山のオペラ作品を作曲されたが、この作品こそが団伊玖磨の遺言的作品であることは間違いない。滝廉太郎、山田耕作、団伊玖磨と続いた近代日本音楽100年の伝統は果たして受け継がれて発展するであろうか。国際的な期待は高まるが現代日本にその兆しを見ることは出来ない。オペラ「ひかりごけ」が後世に与える衝撃は極めて大きいのである。

何時の日か大和言葉で歌いたる、歌物語生まれけるかな

Someday in the future Musical Story named Opera will be born in Japan ?

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15 May 2006

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Kanagawa Philharmonic Orchestra ALCD-9035-9036 2002

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NEW OPERA FROM KYOTO

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