信号と雑音

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Ky-147

Signal and Noise

今晩は!気がつけば早いものでもう桜が散ってしまいましたね。これから新緑の季節です。私が最もこころ安らかになる季節であり、希望に萌える季節でもあります。さて、有名な「ゆらぎ」の理論によれば、パワースペクトラム曲線が周波数に対して1/f で右下へ45度に直線的に下がるのが最も自然現象のゆらぎに近く、聴いていて最も心地良いことになっています。周波数に対してスペクトラムが変らないのは白色雑音に近く、逆に曲線が立ち上がって来ると機械的な単調な表現になる。1/fn(fnはfのn乗)で表わすと、n=0では白色雑音(White Noise)、n=1では適度なゆらぎ、n=2以上では単調過ぎることになります。しかし、ここで疑問が生じます。ではコンピューターで1/fの分散をする音楽を作曲することは容易でありますが、それが音楽としてどれほどの価値があるかということです。環境音楽とかいうジャンルもありますが、ただ心地良いというだけでは芸術としての音楽には程遠いのです。ここにコンピューターと人間の違いがあります。完全に均等配分された平均律音階で作曲されたコンピューター音楽は何の面白みも深みも表現出来ません。音楽は人間が作るものでなければ芸術作品にはならないのではないでしょうか。平均律より純正律の方が遥かに美しい和声が再現されます。僅かに4セント移動させることで和声に深みが出て来ます。僅かな不純物を含む物質が輝きを増す自然現象と相似する原理であります。モーツァルトの音楽が1/fの範疇に入ることを否定する者ではありませんが、それだけの理由でモーツァルトが素晴らしいと言うのは本当のモーツァルトを聴いたことにはなりません。モーツァルトは1/fにしようと作曲したのではないからです。音楽では僅かにアンニュイな音が混じることによって音色に深みが再現されるのです。何時も申し上げている様に、10セント級の音感がなければ非平均律音階の音楽を聴くことが出来ないのです。1/fにゆらいでいることだけでは芸術作品としての音楽にはならないことも忘れないで頂きたいと思います。音楽の基本構成要素である、音程や和声とテンポは無限の変化と可能性を秘めています。分析することと作曲や演奏することは別の次元のことであります。音楽学者が名演奏家ではないのと同じ理由であります。では自然界の音楽は人間の演奏家を超えているのでしょうか。もし、そうであれば自然の音楽だけで十分であり、人間の作曲家は必要なくなります。芸術音楽はやはり人間でなければ作れないのではないでしょうか。自然を模倣して人間が限りなく自然に近づく過程において芸術が生まれると考えています。それ故に自然と芸術は別の次元のものと解釈出来ますね。
今日のテーマである雑音についてでありますが、白色雑音は全ての周波数を含んでいるが故にゆらぎ分析では1/fn(n=0)であります。絵の具で言えば全ての色を均等に混ぜ合わせた様な状態であります。それが絵にならない様に、白色雑音には楽音がありません。
楽音と雑音の違いは何か。音楽では音が多いほど良いとは限りません。5音から7音を使うにしても、どの音をどれだけ使うか。12音の周波数を決めることが音律論であります。そして、その内からどの様に配列するかが音階論であります。世間では音律と音階を混同している傾向があります。平均律だけであればそれでも実用上は支障はないのですが、非平均律では音律と音階を厳密に区別しなければなりません。東洋音楽の真髄はその非平均律の長い歴史によって醸成された前人未踏の世界です。各民族や国によっても相互に影響を与え合いながら変遷を遂げて来ました。一つの楽器が複合的重和声を発する伝統が完成されているのは驚異的という他はありません。例えば笙がその最たる例ですね。気温によっても周波数が変化するし、しかもポルタメントで発声します。そんな楽器は西洋音楽にはありません。石造りの教会の中で演奏する楽器と、屋外や開放的な広い空間で演奏される楽器では根本的にその構造からして異なるのは当然であります。西欧音楽から見ればカオスの様な東洋音楽の合奏は、歴史の長さと多様性において西欧音楽の遥かに先を行っているのであります。コンピューターも複雑な音も再現できる様に更に開発を進めないと東洋音楽の作曲と演奏が十分には出来ません。どんな周波数の音でも再現出来て、どんな音律と音階でも使用できる夢のDTM時代の到来を待ち望んでいるのです。信号と雑音はS/N比という指標で通信技術の精度を表しますが、音楽においても物理的な純音では芸術音楽たりえないのであります。日本では昔、「水の清きに魚住まず」と極端な改革に批判が記録されていますが、DTMにおいてもコンピューターの発声する純音だけでは芸術作品の作曲は出来ないのであります。「澄み切っている中にも一点の濁りがある」音によって琴線に触れる音楽が作られるのであります。音楽における音の問題は単純ではありません。DTMにも伝統楽器に限りなく迫る性能が要求されるでしょう。この夢は何時になれば実現するでしょうか。

アンニュイの音も混じりて古への、妙なる調べ聴こえ来るなり

Listening to the ancient music composed with pure and ennui sounds

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22 Apr 2006

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「ゆらぎの発想」 武者利光著 1998 NHKライブラリー79

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