五里霧中の船出

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Ky-143

Departure in the Heavy Fog

村山先生、今晩は!先日はご多忙中の処を当地までお立ち寄り下さり感謝申し上げます。海峡の見える高台での鄙びた風情も味わって頂いて嬉しく存じます。この次は嵯峨野の雅びを満喫して頂いて、鴨川の床料理でも如何でしょうか?さて、長々と私の置かれた現在の心境をご説明してご理解を賜り有難う御座いました。また、当を得たご助言も頂き、やはり自分ひとりで考えているだけでなく客観的な見地からのご指摘は正しいものと実感致しました。そのご期待にお答えする為にも不退転の所信を申し述べて御礼に替えさせて頂きます。
今年の2月11日に作曲しました実験作品のNET-5050211を毎日聴いて参りましたが、未だに自らが作曲した作品の音階を正確には当てることが出来ていません。やはり10セント級の音感を会得するには、更に長い時間が必要と思います。しかし、10セント級の音感を獲得できるまで待っていたのでは、オペラ作品は永久に完成しません。先生のご助言を受け入れて、この五里霧中での船出を決意致しました。その心境は本日の一日一歌の通りで御座います。「五里霧中君を頼りに船出せん、何時また会える旅路の果てに!」 少々侘しい船出の歌でありますが、私の心境の一端を表現しています。「君」とはわが心の都であり、私の永遠の都のことであります。具体的なイメージは現実の京都でありますが、京都の歴史そのものであり、理想的な夢の都を意味しています。それ故に現在の京都市とは異なるイメージも多くあります。「頼りに」では五里霧中で羅針盤に相当する計器はDTMであります。伝統楽器では決して表現できない音楽を創造するためにはDTMが不可欠であります。2005年2月11日は無名の作曲家である大宮律人の誕生日とも言える記念すべき日となりました。非平均律五音音階による初めての実験作品であるNET-5050211は数曲を四つの音階で再現した自由組曲であります。この作品によって大宮律人の作曲家としての第一歩が始まったのでありますから、40年間の準備期間を経て、村山先生との邂逅により遂に小さい音楽の芽が京都の地に生えようとしています。「何時また会える」は道程が極めて遠いことを暗示しています。恐らくはわが存命中には到達出来ないであろうと予想されます。「旅路の果て」とは人生の終着駅のことでありますが、それが何処にあるかも今は分かりません。Departとは出発という意味でありますが、文学的にはこの世の別れという意味もあるそうです。京都の古い友人で10歳年長の私の人生の師匠でもある方が、この前に京都のお宅をお訪ねした時に、「あなたは180度変わられた。それは良い意味においてです。」と言われました。私自身もそれをお聞きして大変嬉しく存じました。そして、師匠さんもこの30年間で一番幸せそうに映りました。師匠は人生の終着駅を見つけられたのですね。これまでの並大抵ではないご苦労の果てに70歳を超えられて初めて到達された晩年の幸運に恵まれたのであります。以心伝心の親友にして初めて分かる感覚ですね。私も師匠さんにあやかりたいと願っていますが、遥か遠くにその終着駅を見つけることが出来るでしょうか? この五里霧中の深い霧が一瞬でも晴れた時にその終着の港に近づいていたら幸運ですね。それは夢かもしれませんが、その港へ向けて船出することに致します。師匠のお言葉は私も遠く遥かにではありますが、幸運の終着駅を見つけるに相違ないことを暗示しています。もしそれが現実ならこんなに幸せなことはありません。非平均律五音音階の開拓により、古くて新しい東洋音楽の再発見を成し遂げたいという夢は現実のものとなりつつあります。特に肩を怒らす様な気負いはありません。自信過剰で傲慢でもありません。自信はありませんが、自信喪失でもありません。完成を目指してはいますが、完成は有り得ないとも考えています。何処に終着駅があるかも分かりませんが、2023年には私は満80歳になるでしょう。その年の2月8日に京都オペラの作品を一つでも京の地で上演出来れば、それを有終の美というべきでしょう。それを夢見て日夜研鑽を続けたいと思います。その旅路の道中の日々が幸せであればそれで良しと致します。終着駅に至れるかどうかは結果ですから、予想することは意味がありません。一寸先も見えないこの深い霧の中を今静かに帆を上げました。ただひたすらに主に祈るだけです。何時かは終わる旅路が幸運である様に祈りたいと思います。個人の能力などは小さく無意味な世界ですね。
かくも長き旅路が再び始まるとは夢にも思いませんでしたが、霧は何時かは本当に晴れるでしょうか?霧の中で航行するには現代ではレーダーという計測器があります。またエックス線の様に物体を透視する検査機器もありますね。しかし、眼に見えない霧を透視する機器はありません。主観を厳しく排して全ての物事を客観的に透視・透聴するには極限的な修行を要します。仏教には観音という言葉がありますね。霧の中では自らの眼と耳しか使えないからであります。勝てなくても負けはしない、攻撃もしない替りに守り抜く不戦不敗の人生哲学は荘子先生が2300年前に教えてくれています。それでも荘子先生は夢を捨てませんでした。有名な胡蝶の夢でありますが、高山寺を開いた明恵上人も夢をみる人でした。深い霧の中を徘徊しながらも、夢は捨てないで時を待ちたいと思います。荘子先生は神の存在を肯定も否定もしていません。それは本当に凄いことですが、凡夫は苦しい時はやはり神頼みになりますね。主に祈り感謝する気持ちを捨ててはいけないと考えています。神は人に試練を与えます。それは神の愛であると受け止めれば苦しみも柔らいで来ると思うのです。

五里霧中君を頼りに船出せん、何時また会える旅路の果てに!

I'll depart alone in the heavy fog, dreaming to meet you again at terminal port !

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Kyoto Opera Location Album            28 Jul 2005

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自由組曲 NET-5050211 大宮律人 2005

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NEW OPERA FROM KYOTO

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