作曲と作詞

music forum

Ky-140

Composer and Poet

村山先生、お早うございます。長い連休期間も今日で終わり、明日から今年の後半戦に入ります。今年はプロ野球でも交流試合が始まり、戦後60周年の節目の年でもありますね。世界中のあらゆる分野で新しい動きが見られます。音楽もまたその例外ではありません。絵画でも料理でも新しい動きが始まっています。科学技術の分野でもロボット工学が飛躍的な発達を始めました。医学でも遺伝子治療が始まろうとしています。遅れているのは国際政治だけかも知れません。文物や情報が国境を越えて交流しているのに、民族主義を押し出して歴史の前進に抗する動きもあります。古い国家体制から新しい地域体制への歴史的な転換点にあるものと考えられます。
さて、オペラの台本造りが暗礁に乗り上げて前に進めない状況が長く続いていますが、よくよく考えて見れば作曲と作詞を一人で担当すること事体が元々無理なのではないかと思われるようになりました。モーツァルトもダ・ポンテと組んで四大オペラの三つを完成させました。最後の傑作「魔笛」もシカネーダーの台本にモーツァルトが作曲して完成しました。勿論、モーツァルト自身も台本への注文は出しています。作曲家と台本作家の共同作業でオペラは生まれるのでありますが、これを一人でやってのけたのはワーグナーだけであります。この意味においてはワーグナーの自作自演はオペラの歴史では異常で、且つ異彩を放っています。しかし、自作自演の欠点である単調さとマンネリズムは避けられないところですね。モーツァルトの四大オペラは一作毎に、全く異なる新しいオペラが生まれました。作曲家と作詞家が分業することはオペラ制作の基本原則であることを証明しています。オペラの制作は一人で全てを完成させることが出来る程易しくはないことを痛感している処です。では、どうすれば良いのでしょうか? この3年間は作曲と音階の研究に没頭して参りましたので、作曲の方では幾らかの展望も開けて来ました。非平均律五音音階の実験は40年の遅い歩みの末に到達した橋頭堡であります。その新しい音楽に相応しい歌詞を付けることがどうして出来ないのでしょうか? 人生の第四コーナーを廻っている現在の私にとっては能力の限界に直面して深刻な悩みと焦燥の日々を送っている処です。これまでも幾つかの絶壁を乗り越えて来ましたが、今度の氷壁は余りにも高いようです。私自身の体力と感性の衰えもあるでしょう。それでも最後の絶壁に挑戦し続けるにはどうしたらよいかと思案に暮れているのです。私の事業に理解のある長男は、作曲にだけ専念すればよいのではないかと助言して呉れました。元来、オペラの制作は歴史的にも作曲家と作詞家の共同作業で成り立って来たのですから、作曲と作詞を一人でしようという事自体に無理があります。今後は
作曲により重点を移して音楽活動を続けたいと考える様になりつつあります。オペラの音楽を先に作曲してから歌詞を付ける。または、別人に作詞を依頼するという方法も考えられます。その際にも自分で作詞することを特に排除するものではありませんが、作曲と作詞が別人の場合の方がより良い作品が生まれるという原則は替えがたいと思います。私が2000年に村山先生の前期作品抜粋集に英語と日本語の歌詞をつけて、「オペラ・ホリスティック」を書いた実例があります。台本に作曲するという通例とは逆方向の制作過程でしたが、音楽に歌詞をつけるという過程は小作品では昔から見られる方法でもあります。オペラの場合は作曲家と作詞家が共同作業によって造り上げるというのが基本にあると思いますので、音楽が先に完成している場合は珍しいと思いますが、オペラ作品の成功は80%まで音楽で決まるという事実も忘れてはならないと思います。
非平均律五音音階の研究と開発を始めて三年目になりましたが、東洋音楽の原点とも言うべき非平均律五音音階はその原型は既に周の時代に完成していたと言われています。五音音階だけでなく七音音階もほぼ同時に完成していたと考えられます。そして音階の基礎である当時の十二音律がどのような音であったのかは現代では再現することが出来ません。漢の時代でも周の音律を再現しようとして果たせず、楽府を任された李延年は西域系の音律を採用して新楽を設立したのであります。このように
古くて新しい東洋の非平均律系の音階を用いて作曲するためには、平均律系の現代の西洋音階とは根源的に異なる音楽を目指さなければなりません。ほぼ均等割りした十二音から構成する西欧の七音音階である平均律系音階は最も単純な構成であるが故に転調も可能になり和声学も発達しました。しかし、使用している音は僅かに十二個しかないのです。これはピアノの普及の弊害でもあるのですが、白鍵と黒鍵の間の100セントの中に無限の音空間があることに気付くことはこの百年間では困難であった訳であります。東洋の非平均律系音階には平均律系の和声学は通用しませんので、新しい和声学の研究と開発が必要になります。僅かに2〜3音でも深い和声を奏でることが出来る非平均律系音階は単純ではなく奥が深いのです。東洋では和声学が発達しなかった本当の理由がここにあると考えています。音楽と歌詞の一致は滝廉太郎以来の近代日本音楽の悲願でもあります。作曲に重点を移しながらも、引き続いてこのテーマにも挑戦を続けたいと念願しています。最晩年の限られた時間の中で能力の限界を超えるこの事業を何処まで進められるかは予想も立ちません。亀さんのように諦めずに停まらないでゆっくり急ぐしか道はありません。(8 May 2005)
ところでワーグナーの様に作詞と作曲を一人でしてします天才もいますね。両方とも出来る人のことを
Compoetと呼びたいと思いますが如何でしょうか。でも一人のひとが両方を担当するとどうしてもワンパターンになりますね。作詞と作曲は別人に限るというのが音楽の歴史の教えるところでありますね。どちらも難しいですが、何万語から言葉を選ぶ作詞の方が、僅か七音から旋律を編み出す作曲よりは遥かに難しいと感じています。そうして作詞が完成すると作曲も半分以上出来上がったも同じではないでしょうか。作曲家が自然と曲想が浮かんで来る様な作詞が出来れば、詩人としては最高ですね!(21 Mar 2007)

停まらずに歩み続ける亀さんよ、何処へ行くのか分かっているか ?

Slow tortoise never stop and where are you going to ?

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  8 May 2005

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「中国音楽再発見・歴史編」 瀧遼一 1992 第一書房

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