舞台論

music forum

Ky-138

On Stage

村山先生、お早う御座います。今年も早や桜が咲く季節になりました。移ろい易い日本人の感性を象徴する桜花は、古人も歌っている様に何か落ち着かない気持ちにもなりますね。102歳の世界最高齢の指揮者としての中川牧三先生の対談集を読みました。あの朝比奈隆先生よりも数年以上も高齢で、お二人は昔から京大と同大のオーケストラ時代からのお知り合いとのことであります。波乱万丈の一生でありながら、近衛秀麿先生という良き先輩を持ち、ドイツとイタリアで勉学されてベルカントを日本に植え付ける音楽教育を戦前から実践して来られた方であります。「歌が無ければ一分も生きられない」とのお言葉には感銘を受けました。日本語はイタリア語と同じく母音で終わる言葉なので、日本語でもベルカントが可能であるとのお説でありますが、それは20世紀のご見識であろうと考えます。21世紀では日本語に最も相応しい歌い方を新たに開発しなければならないと思います。日本音楽の歴史をその源流からもう一度研究し直すことが求められていると考えています。ですが、中川牧三先生の百二歳の鷹揚たるテンポの流れは芸術作品の様に素晴らしいと感じます。誰も真似は出来ませんがそうで無ければ百歳までは生きられないのであろうと思います。
さて、オペラの舞台をあれこれと考えながら研究と制作を続けていますが、世阿弥の「
風姿花伝書」を拠り所として、京都オペラの舞台は如何にあるべきか、また舞台とは何かを考察して見たいと存じます。舞台はあらゆる芸能が繰り広げられる夢の世界であります。歌も踊りもある舞台は、観る者にとっては現実から離れて幸せや感動を与えてくれる一時でもあります。しかし、舞台芸術を制作する者にとってはこれ以上難しいことはない程に困難な事業であります。観客の層により、季節や時間帯により、劇場の大小や位置、使用する言語や演目によりそれぞれに異なる演出が必要であります。出演する役者の技量によっても演出を変える必要があります。最も難しいとされるテンポの設定も、上演する状況によりきめ細かく変えて行かなければなりません。舞台の演出は一回として同じ演出は有り得ないのでありますから、実際の舞台はDVDを見る様に簡単ではありません。観る方もその日その時の舞台状況を理解して、作者と演出家の意図を汲むことが出来れば更に有意義であります。観客に夢の世界を提供する舞台とは一体何でしょうか? 哲学的に言えば、舞台は時間と空間が出会う場所と言うことが出来ます。今私達が居るところは、この広い宇宙でもこの時間と空間によって規定される一点であり、次の瞬間にはもう存在し得ない点であります。その点が連なって線になって行くかどうかも分かりません。しかし、舞台は空間と時間を仮定的に設定して観客に見せて呉れます。舞台を観ている間は観客は現実から逃避することが出来るのです。それ故に舞台も一つの現実でありながら、現実ではない夢の世界を提供しているのです。ここに舞台芸術の存在意義があるのであります。前回のレポートでは、「現在は過去と未来の交差点である」と申し上げました。その意味では、今日この時この所にいる瞬間は、現実の現在でもあり同時に夢の中でもあると言えないでしょうか? 舞台は現実であると同時に夢の世界でもあるという詭弁的な解釈が成り立つのであります。
では、現実と舞台とはどう違うのでしょうか? 現実には私達を取り巻く環境と事実は数え切れないほどの要素が同時に存在していますが、舞台ではそれらの全てを表現することは出来ません。舞台では象徴的で簡素な表現が求められているのです。
能の舞台はその最たるもので、究極の象徴的表現が完成しています。世界遺産にも指定されていますが、究極の表現がなされている為に、現代の日本人が観ても理解できない程の高度な象徴主義的表現で上演されています。能の舞台をお手本としながらも、京都オペラの舞台ではもう少し現実的な表現法を採用したいと考えています。現代の西欧オペラの舞台表現は、一昔前の写実的な表現から抽象的な表現へと変って来ました。例えばモーツァルトの作曲した音楽は変らないのに、そのオペラの舞台表現は千差万別に変りました。行過ぎたり戻ったりと時代を経る毎に変りますが、やはりある程度のバランス感覚が必要であります。「魔笛」はあらゆる舞台表現が出来る見本の様な作品でありますが、例えば、モーツァルトとダ・ポンテが書いた台本には王子タミーノは日本の狩衣を着て登場するとあるので、衣装はこの点を生かした表現がなされるべきであります。ですが、最近では狩衣を着たタミーノを見たことはありません。舞台装置も四角い大きなマット一枚で表現している舞台もありました。
能舞台では役者も囃子方も同じ舞台で演じていますが、西欧のオペラではオーケストラは舞台の下に配置されています。しかし、モンテヴェルディの時代までは演奏者も役者と同じ舞台で演奏していたとのことであります。
京都オペラでもバロック時代のオペラの様に、歌手と奏者を同じ舞台に上げたいと考えています。能舞台とバロック・オペラの舞台を参考にして、どんな舞台を造ろうかとの夢が広がります。能は仮面舞踊劇でありますから、素晴らしい能面を使用していますが、オペラは殆ど仮面を使って来ませんでした。1600年頃に始まったオペラですが、当初はギリシャ悲劇の復活を目指したのです。ギリシャ悲劇は能と同じく仮面劇でしたが、日本に生まれた能の方がギリシャ悲劇の伝統を受け継いでいるのは興味深いことであります。能の謡い方は仮面の使用を許容出来ましたが、オペラの場合は仮面はベルカントの妨げになったので採用されなかったのでしょうか? それなら口あき仮面なら使用可能でありますから、オペラでも仮面をつける場合があります。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の仮面の三重唱はあまりに有名でありますね。京都オペラでも一部に仮面を使用できないか検討しています。
京都の町を歩いていると、オペラの舞台にそのまま成る様なアングルが多く見つかります。京都の町もかなり変りましたが、昔から変らない風景もまだ沢山残っています。世界に冠たる歴史的景観は是非とも守って頂きたいと思います。高いビルディングを建てることが都市の開発と考えるのは既に前世紀の考え方であります。これからは循環型社会を形成しなければ、地球温暖化を防止できません。京都はその為の「
京都議定書」が生まれた町であります。芸術と環境は共に提携できる分野ですから、京都オペラは地球環境をまもる運動にも何らかの貢献が出来れば嬉しいと考えます。自然の美しさを称える歌や人の心に感動を呼び覚ます歌が世界中に普及することを夢見ることも舞台造りの楽しみですね。

歌姫のうたう舞台や夢の中、京のみやこは今も昔も!

Singing princess on the dream stage of Kyoto even now and past !

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1 APR 2005

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「風姿花伝書」 世阿弥 著述期間 1400〜1433

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NEW OPERA FROM KYOTO

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