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100th Anniversary of Rentarou Taki |
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村山先生、2003年は滝廉太郎の没後100周年に当たりました。明治維新後初の作曲家、ピアニストである滝廉太郎は、1879年8月24日に東京で生まれ、1903年6月29日に大分で没しました。僅か23歳と10ヶ月の一生でしたが、近代日本の音楽は彼と共に始まったと言うことが出来ます。そして、没後100周年を迎えた今日の日本の音楽事情を見ると、滝廉太郎が求め続けていた新しい日本の音楽が完成しているどころか、時代を先取りしたその華麗な国楽の芽は数輪の花を咲かせただけで枯れ果ててしまったのではないかとの印象を強く持ちます。滝廉太郎の伝記や作品の解説書は既に多く出版されていますので、詳しい解説は省略致しますが、一言で云えば、滝廉太郎の後を継いだ山田耕作とその弟子である団伊玖磨を経て現代に至っている訳でありますが、100年が過ぎ去った今静かに滝廉太郎の全曲を聴いていると彼が目指した新しい日本の音楽は未だ完成もしていないし、彼の死によって歴史的な前進は停まったままではないかと考えてもよいと思います。作曲と作詞で完全に行き詰まっている現在の心境で私なりに、滝廉太郎の果たした歴史的な役割と彼の目指した新しい音楽とは何であったのかに思いを巡らしてみたいと思います。 滝廉太郎は近代日本の第一号の作曲家であり、ピアニスト第一号でもあります。このことは山田耕作自身が何回か書いていますし、彼が第二号であるとしています。7歳先輩の滝廉太郎のことを「滝君」と呼んでいるのは、いささか礼儀に失するのではないかと感じます。では、山田耕作は滝廉太郎を遥かに越えることが出来たのでしょうか? 山田は滝の名曲「荒城の月」を何度も編曲して、調性も変えて重要な一音を替えてしまいました。それは「春高楼の花の宴〜」の宴の「え」が滝の原作ではE#であるのに、山田はEに変更して半音下げてしまったのであります。その為に現代では山田版の「荒城の月」が普及してしまった為に、滝廉太郎の原作の旋律を現代の人々は聞くことが出来なくなっています。没後90周年に発行された「滝廉太郎全曲集」(1993)では、滝の原作と山田版が並べて比較できるので貴重な記録になっています。今その二つの「荒城の月」を聴き比べてみて感じることは、E#は滝廉太郎が日本古来の陰旋法に近づけようとして、Eを半音上げてE#としたのではないかと考えられます。海老沢敏先生も著書の中でそう述べておられます。西欧音楽の圧倒的な影響下にあった19世紀の末から20世紀初頭では、新しい日本の音楽である「国楽」の創造に最初に立ち向かった、近代日本音楽史上で初めての天才である滝廉太郎にしても、西欧音楽の調性を用いながらも、日本情緒を強調するせめてもの一音がE#ではなかったかと想像致します。山田以降も西欧一辺倒の傾向は一瀉千里に進み、その西欧崇拝の音楽事情は団伊玖磨が2001年に蘇洲で没してもまだ流れ続けていると見る他はありません。滝廉太郎以後の作曲家は多くいますが、山田耕作と団伊玖磨を代表人物としてその全ての同時代人を含んでいるとお考え下さい。団伊玖磨の「夕鶴」にしても、制作されてから既に50年以上を経過しています。この50年でも滝廉太郎が目指した新しい日本の音楽、その当時は「国楽」と呼んでいましたが、この夭折の天才の夢は未だ実現していないのではないでしょうか? 組歌「四季」、「箱根八里」、「豊太閤」、「お正月」、「別れの歌」、「荒磯」などの歌曲や童謡は現代でも歌い継がれている名曲でありますが、絶筆のピアノソナタ「憾」は聴く者の胸を打たずには居られません。短い曲ですが、華麗な単一のテーマが繰り返し奏でられます。そのテーマは美しくも悲しい旋律で、作曲者の見果てぬ夢を追い続けるかの様に聴こえます。滝廉太郎はこの絶筆のピアノソナタで、後世の人々に強烈なメッセージを送っています。あまりに短い一生でその夢を実現させることが出来なかったことへの将に「憾」の念を込めている歴史的なメッセージであります。そして最後の一音はテーマの旋律よりオクターブ低いDの八分音符で劇的に終わります。彼の死を予告する悲劇的なフィナーレでもあります。滝廉太郎がせめてモーツァルト並の35歳まで生きていたら、現代日本の音楽事情は大きく変っていたであろうと予想されます。欧米の音楽に全く引けを取らない堂々たる器楽曲やオペラが既に完成していたであろうと思うのです。団伊玖磨の「夕鶴」も日本語歌詞の旋律がもっと日本語に自然な表現に到達していたであろうと仮定法で考えます。しかし、その仮定法は実現しなかったのであります。滝廉太郎は東京音楽学校の学生であった当時に、バッハの「イタリア協奏曲」をピアノで演奏していたと言います。東くめという親友を得て、数々の美しい童謡も書き残しました。ゲバントハウスでのオペラ鑑賞の帰りに引いた風邪をこじらせて肺結核という当時の不治の病を得て、ライプチッヒ音楽学校へ僅か二ヶ月通っただけで、無念の帰国を余儀なくされたのでありますから、絶筆の「憾」に込められたメッセージは現代に生きる私達に、強く胸を締め付ける様に訴えています。その声無き声は、「我が見果てぬ夢を日本の若者よ、何時の日にか成し遂げよ!」 と語りかけている様に聴こえます。その呼びかけに答えて、「我等その才無く微力なりと言えども、彼の高貴なる志を少なくも継がんと欲す!」 と宣言できれば嬉しいと思います。歴史的にも滝廉太郎が目指した、新しい日本の音楽の創造が今将に求められているのでありますから、21世紀にはその歴史的必然性により、彼の遺志を継ぐ若者が日本に現れることを期待したいと思います。音楽の友社発行の「新訂・音楽辞典」には、滝廉太郎の記事は僅か12行しかありません。モーツァルトの記事は最多の34頁と単行本並であるのとは対照的であります。現代日本の音楽事情が100年前と殆ど変っていないことを傍証しているのではないでしょうか? 滝廉太郎が遺した珠玉の作品は、現代の我々に今改めて「音楽とは何か?」、そして「芸術とは何か?」を問い掛けています。彼は近代日本の作曲家第一号でありましたが、決して職業作曲家では無かったからであります。百周年を記念して、「滝廉太郎全曲集」を是非ともお聴き頂きたいとお勧め致します。 |
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「没後90周年 滝廉太郎全曲集」(1993)CD COCC10975−6 15 Jan 2005 |
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