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Harmony and Percussion |
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村山先生、今晩は! 日一日と秋の気配が感じられる様になりました。わが庭では既に毎夜秋の虫達によるコンサートが始まっています。まだ、シーズンが開幕したところなので初々しさが目立ちます。今年は鈴虫の声を聴いているので、例年ほどの感激はありませんが、毎晩庭に出ては聴いています。世間ではオリンピックで湧いている様ですが、音楽研究の大きな絶壁に直面している私には、他事に関心を払う余裕はありません。醒めた眼と耳で、行く末と越し方を見つめて聴き続けている毎日であります。 さて、非平均律五音音階による芸術作品の作曲にはどの様な条件が必要なのかを日夜研究していますが、今回は和声と打楽器について考察致します。そして、音楽に於ける即興性についても考えて見たいと思います。西欧音楽の代表であるモーツァルトの作品では、どの名曲も全て教科書の様に旋律、和声とテンポが決まっていますね。和声の場合は、主旋律を修飾して、また、伴奏するために弦楽器の低音部が貢献しています。その代表例が通奏低音であります。通奏低音を演奏できる楽器は、チェロやコントラバス等の大型弦楽器、オルガンやハープシコード等の大型鍵盤楽器があります。また、ホルンやトロンボーン等の金管低音楽器も通奏低音を演奏することは可能であります。東洋音楽においては、弦楽器の低音部が弱いという欠点がありましたので、通奏低音は東洋音楽では発達しませんでした。その代りに、打楽器による伴奏は早くから発達していました。重低音から高音まで多種多様な打楽器が生み出されて来ました。打楽器だけでオーケストラを構成出来る程の種類と音量を誇っています。即ち、東洋音楽では和声が発達しない代りに、打楽器による伴奏が高度に発達して来たのであります。雅楽に於ける、あの大太鼓の響きはどうでしょうか? 鞨鼓のあの軽やかで目まぐるしく変るテンポは如何でしょうか? 扁鐘に至っては巨大な重低音部から高音部まで網羅しているではありませんか? 打楽器は恐らくは、人類が初めて造った楽器ではなかったでしょうか? 手拍子だけでも立派な楽器になりますね。「歌に手拍子」こそは、人類の音楽の将に原点であります。東洋音楽では何故に和声が発達しなかったのかを研究して行く内に、東洋では打楽器が高度に発達していた事に気付きました。打楽器による伴奏は中国からアラビアまで普遍的に見られる東洋音楽の基本条件の一つでもあります。この様に打楽器による絶妙なテンポを演出して来た長い伝統があるので、和声はあまり発達しなかったのでありますし、必要がなかったのかも知れません。しかし、芸術作品となると和声は無視できません。西欧音楽の様に旋律を軽視して、和声を重視し過ぎるのは、東洋音楽では通用しませんが、和声もこれからはある程度採用する必要性があると常々考えて来ました。その為に通奏低音と通奏高音の実験を続けているところであります。幸いにも、DTMでは通奏低音も通奏高音も同時または単独で発声することは簡単でありますから、思い切った通奏低音と通奏高音の実験をすることが出来ました。その結果、非平均律五音音階に於いても和声は十分に可能であることが実証されました。但し、五音音階の場合は平均律ではないので隣の音同士の和声は著しい不協和音を生じるので、少なくとも2オクターブ以上離せば、不協和音であってもそれほど苦にならない和声を演奏できる実験も出来ましたので、早速新しい作品に採用しています。和声に関する感性は東洋音楽と西欧音楽では全く異なります。笙のあの素晴らしい可変重和音を我々東洋人は妙なる楽音と感じるのに、西欧人は地獄的な雑音に聞こえると言うのです。音階も音種も少なく簡単である体系の西欧音楽しか聞いたことがない人々には、複雑で多彩な体系を誇る東洋音楽を理解することは難しいのではないかと考えます。私達は古い東洋の伝統に生きる国民でありますから、西欧音楽しか解らない人々の為に作曲する必要は毛頭ありません。私達には新しい東洋音楽の歴史の一頁を開拓する使命が与えられていると確信しています。これまで通りの音楽研究と芸術作品の作曲を行き着く処まで進めて参る所存であります。 和声と打楽器による伴奏をどちらも多用することは良くないと考えています。主旋律を引き立たせる為には、和声か打楽器かどちらかを主体にせねばなりません。和声を重視すれば、打楽器は必要最小限に控えることが必要ですし、打楽器による伴奏を主体にすれば、和声は必要最小限に控える他はありません。これまでの東洋音楽は打楽器に偏り、西欧音楽では和声に偏る傾向を示して来ました。五音音階であっても東洋音楽にも和声を取り入れる必要性を強く感じて来ました。そして、そのことはDTMによって初めて実現が可能となったのであります。DTMは音階と音域を最大限に拡大するという、古今東西の伝統楽器では不可能であったことを可能にしたのであります。これからは更に美しい音源の開発と多様な機能の発明を期待しています。日進月歩のコンピューター時代ですから、次々と新しいコンピューター楽器が登場すると心待ちにしているところです。 ところで音楽に於ける即興性について考察を追加致します。人類が初めて音楽を奏でたのは何時か分かりませんが、それが歌であっても、旋律楽器であっても、打楽器であっても全て即興演奏であったと考えられます。楽譜もなく、録音装置もありませんから、即興的に作曲・演奏するしかありません。それ故に即興性は音楽に於ける起源的な要素であり、現代に至っても未来に於いても、音楽の作曲と演奏に即興性の要素は不可欠であると信じて参りました。自作の演奏においては言うに及ばず、他の作曲家の作品の演奏に於いても即興性という要素を欠いては無味乾燥な再現に終わってしまいます。何故なら、もし完全な楽譜が残されていたとしても、作曲家の意図した音楽の完全な再現は不可能であるからであります。楽譜では作曲家の全ての情報を伝えることは出来ませんし、仮に名演奏が残されていても全く同じ演奏の再現も亦不可能であります。即興性を内包した演奏でなければ、歴史的な名演奏も生まれないし、演奏する度に新しい感性を感じさせる生き生きとした再現もありえません。それ故に即興性を内包する作曲・演奏を主要な手段として研究を続けて来ましたし、これからもこの方針を変えることはありません。日本の津軽三味線は全て即興演奏であり、楽譜は必要ないと若手の演奏者がNHKのインタビューに答えていました。あの戦慄を呼ぶような曲弾きは即興演奏でなければ表現出来ない超絶技巧でありますね。その結果、出来上がった作品は即興曲であることが全く分からない位に完成度が高くなければなりません。そのことの実現の為に必要な研究と努力を怠る者ではありませんが、即興性に関するご理解が頂ければこれ程嬉しいことはございません。私自身に与えられた使命を、最長不倒距離を目指して幾らかでも実現する為には、最も重要な基本的要素の一つであると信じています。 世界の民族音楽を聴く旅を始めたばかりですが、101枚のCDからなるこのシリーズは現代の記録としては最高の作品ばかりであります。まだ評論を申し上げるところまで行きませんが、非平均律音階は日本と中国を含む東アジアから東南アジア、印度からアラビアまでシルクロードに沿って繋がっていて、アジア大陸からアフリカ大陸北部まで広がっています。中南アフリカの音楽は非平均律音階の範疇に入りますが、リズムの躍動感が素晴らしい為に旋律が圧倒されている様ですね。南アメリカの音楽は現代ではスペインとポルトガルの影響で平均律音階になっている様です。旋律とリズムに特徴はありますが、平均律用の楽器を使用しているのが原因であるかも知れません。中央アジアの旧ソ連邦の国々は各民族独自の旋律とリズムを持ってはいますが、音階は平均律に近いという結果が出ました。東欧の音楽も西欧に近いこともあり、殆ど平均律音階の様であります。西欧では、非平均律の一種である純正律などの古典的音階を復活させようとする動きもありますが、平均律の独占状態が未だに続いています。平均律の普及で各民族の伝統音階が消滅することがあれば、大変に遺憾なことでありますね。これらはChromatic Tunerで音律を計測した結果でありますが、注目すべきはビルマの竪琴で有名な現ミヤンマーの音楽であります。この「ビルマの竪琴」の異名のあるサウンSaungの即興演奏は重要であり聴く価値があります。今回の非平均律実験音階のU3と共通の音が最も多く含まれていました。しかし、歌が入るとビルマ語と日本語の差異が決定的となります。ビルマ語は語尾の母音が短く、細切れに抑揚を付けて歌いますが、日本語は全て単母音で構成されている為に語尾の母音を長く引き伸ばして歌う習慣が出来上がっています。日本語の歌にはそれに最も相応しい非平均律五音音階を開発する必要性に迫られています。その事が目下の急務であり、最大の難関となって私の前途に立ちはだかっているのであります。 今日は私の担当しているグループホームに沖縄の三線を引く人達が来て、日本の歌や沖縄の歌を演奏して歌ってくれました。「ド、ミ、ファ、ソ、シ」で構成される、小泉文夫先生の五音音階分類で言う琉球音階ですが、同じ音名でも平均律の音程とは著しい差異があります。小泉先生の時代にはコンピューターも普及していなかったし、音階分析に使える様なChromatic Tunerも無かった訳ですから、その点は斟酌するとしても、本当に全国と世界を隈なく調査されたと思います。今日の三線の演奏を現場で分析していましたが、一部に平均律の音程も含んでいますが、大半は非平均律の音程であるとの印象の方が強かったと思います。この非平均律音階のことを人様に説明することの難しさを痛感しています。平均律ではないと一言お断りして、音感だけで聴いて頂く他はないと思い始めています。そして、「ピアノでは弾けない音楽がある」とも説明しています。余談ですが、大正10年(1921)に発表された懐かしい「船頭小唄」を聞いて、老人性痴呆のお婆さんが突然に涙をこぼして泣きました。野口雨情作詞・中山晋平作曲の名曲ですが、お婆さんの青春の思い出が胸一杯に詰まっているのでしょうね。 |
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28 Aug 2004 |
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