通奏高音

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Ky-108

Soprano Continuo

村山先生、今晩は! 9月も既に中旬になりました。秋の虫達のコンサートも益々磨きが掛かって来ました。日中はまだ暑いですが、朝夕はめっきり涼しくなりました。今日のテーマは、「通奏低音」ならぬ「通奏高音」であります。バロック音楽の特徴のひとつである通奏低音を現代音楽に復活させたいと以前から申し上げて参りましたが、この度の「Hirollina Suite 102」の実験作品でこの通奏高音 Soprano Continuoの試行錯誤を試みていたのであります。そのヒントは「癒し系」音楽の代表であるモーツァルト作品の高音周波数が癒し効果に大きい影響を与えているとの報告を聞いたからであります。通奏低音も勿論この作品においても使用していますが、一部において大胆にも新しい「通奏高音」の実験もしていたのであります。通奏高音は雅楽の一部の楽器が高音部の通奏を受け持って来た歴史はあります。独奏の場合、通奏低音の演奏は左手で行いますが、通奏高音の場合はその逆に右手で行います。通奏低音の時とは逆に左手で旋律を演奏し、右手で高音部の伴奏を行うというものであります。但し、通奏高音の場合は、通奏低音の場合の様に長々とは出来ません。一つの楽章の中で極一部の処で実験的に挿入してみたのですが、通奏低音とは一味違う高音の伴奏が聴かれました。その効果は通奏低音と対比しながら、音楽の流れに新鮮な変化を与えています。通奏低音を聴いていて突然にそのパートが一番上に上がっていて、聴衆は虚を突かれてはっとするでしょうね。でも使用回数が少なければ音楽に新鮮な感性を与えます。高音といっても一番上の最高音部による伴奏ですから、音をあまり大きくしなければ、それほど耳障りではありません。通奏低音のゆっくりとしたテンポと共に、通奏高音による緩やかな伴奏は音楽の癒し系の効果を高める役割を果たすものと期待出来ます。その最高高音は高ければ高い程効果的であり、遂には超音波の領域に到達すれば、音楽に新しい見えない効果を与えるものと期待するのであります。超低音による効果と同様のことが言えるのではないでしょうか? モーツァルトのオペラ「魔笛」に於いても、パミーナのソプラノ、タミーノのテノールとザラストロのバスによる三重唱で、ソプラノとバスが交互に通奏するパートがありますが、将に通奏低音と通奏高音を交互に使う二刀流の実験は既に成されていたのであります。モーツァルトの抜きん出た先見性には、何人の時代を超える追随も許さない凄さを感じざるを得ません。
秋の虫達のコンサートを聴いていると、この様に色々な新しい感性を呼び覚まされます。虫達は何の為に一晩中演奏しているのでしょうか? プロの演奏家が毎日生活の糧の為に演奏しているのとは違うでしょう。また、アマチュアが物好きで演奏しているのとも違いますね。元来、
音楽にアマもプロもないのです。私の定義は、演奏してお金を貰うのがプロで、貰わないのがアマです。只それだけの違いです。上手下手も水準の高低も関係ありません。プロの方がアマより必ず演奏技術が上であるとも限らないし、プロの感性がアマのそれよりも鋭く深いとも言えません。本当のプロはアマチュアの精神を失ってはいないし、真のアマチュアはプロを凌ぐ感覚の持ち主である筈です。四千年の文化の歴史を誇る中国で現在までに残っている超国宝級の芸術作品は、その殆ど全てが文人と言われるアマチュアによって制作された作品に限られているのであります。元々、アマチュアという言葉はラテン語のAmatorで好き者、熱愛者とか恋人とかいう意味であります。あの偉大な中国文化の中枢を支えてきたのはこの文人達でした。その多くは国家公務員をしながら、余技としてまた精神の修養の為に理想の芸術を追求して来たのであります。私のこの組曲を聴いて下さった帯広の関礼子さんからは、「アマチュアという名の精神から生み出される妥協のない音の世界に感動する心は等しく同じなのかと思います」と意味深い感想を送って頂きました。プロは聴衆に合わせて妥協することはあっても、アマチュアは自らの芸術の為に妥協することはあり得ないのであります。これは文人精神と言われている精神であり、一切の職業的な臭いを排して、純粋な音楽を追求する精神こそは普遍的な感動を呼ぶのであろうと信じます。
今夜もわが庭で演奏を繰り広げている秋の虫達もその
短い生涯を掛けて懸命に演奏しています。如何なる人知をも超える自然の芸術そのものであります。私たちは別に職業を持っている為に、音楽活動は純粋にボランティア活動であって如何なる場合においてもお金を貰うことは有り得ません。私の友人である音楽を職業とする先生がしみじみと私に言われました。「先生は長年に渡って音楽を趣味として続けて来られて本当に幸せですね。私などは苦悩の連続でした。」と何回も強調されました。趣味と言われると多少の反論もありますが、概ね好意的に受け止めています。誰にも束縛されることのない自由な発想から音楽を研究して制作を続けられる環境は一つの理想であると思います。職業とライフワークが一致すれば、一番いいのかも知れませんが大多数の人々にとってそれは有り得ない選択でありますから。今日は通奏高音の実験的な作品についてご報告致しました。お聴きになったご感想を後日お知らせ願えれば幸いです。休む前にもう一度庭に出て、虫達のコンサートを聴いて来ます!無為自然が産み出す、珠玉の様に煌めく最高高音の美しい音楽ではありませんか?私達のモーツァルト先生でもあの虫達に叶わないかも知れませんよ!

幸せは何処に去りし夢の中、しばしのいのち夜の明けるまで!

Where gone my happiness in the dream still alive until dawn !

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17 Sept 2003 Litto Ohmiya

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"Hirollina Suite 102" by Litto Ohmiya 2003

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NEW OPERA FROM KYOTO

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