アルノンクールのテンポ理論

music forum

Ky-103

Tempo Theory of N. Harnoncourt

村山先生、お早う御座います。こちらでは今日も午後から深夜まで、市内各所でジャズタウンのライブが展開されます。その幾つかをお昼から取材に出掛けます。今日から蝉の声も聞こえ始めました。
私の音楽に関する永遠のテーマである
テンポについて、N.アルノンクール先生はその著書「古楽とは何か?」で次の様に述べておられます。
「一つの作品が演奏されるべきテンポを見つけること、あるいは多楽章からなる大規模な作品やオペラの中のテンポの相互関係は、そもそも
音楽の最も重要な問題に他ならない」 また、「一定不変のテンポ等というものも、この自然界には存在しない
「古代ギリシャや中世初期の音楽においては、事情は全く違っていた。同一の作品をさまざまな速度で演奏することが出来たのである。速く話す人もいれば、ゆっくり話す人もいるように、演奏は個人の気質によるものだった。言語の場合でも、ひとつの文は特定のそれに内在するテンポを持っているわけではない。歌詞が強く訴えるか否かにテンポが影響を与えることはない。グレゴリオ聖歌においては、数倍も大きな速さの違いが見られるが、その事によって、音楽が捻じ曲げられたという印象は全くないのである。つまり、この種の音楽においては、テンポは如何なる決定的な役割をも演じてはいなかったのである。」
「当時の文献によれば、ギリシャの音楽においてはリズムとテンポはひとつである。それは詩のリズムに由来するものであり、それこそがあらゆる音楽の出発点であった。」
「ギリシャには三つの異なったリズムと基本テンポがあった。
(1) 短い音のみからなるリズムは速く、戦いの踊りや、情熱的できっぱりとした表現に適している。1600年頃、このリズムは音楽上のルネサンスの理念とともにヨーロッパの音楽に移入された。
(2) 短い音と長い音からなるリズムは、輪舞を連想させるにふさわしい。おそらくそこで問題となるのはジーグ風のリズムである。
(3) それに対して長い音のみからなるリズムはゆっくりであった。このリズムは賛歌のなかに見出される。」
「1600年頃、ギリシャの音楽がヨーロッパの音楽に利用され始めたとき、人々はこれらの感情(アフェクト)の原理を持ち出した。第一と第三のリズムとがヨーロッパ音楽の感情のレパートリーに侵入したのである。前者は”火の様に”とか”情熱的に”、”決然と”、また後者は”女性的に”、”はっきりしない”、”不活発”と表記された。」
「グレゴリオ聖歌の場合には、すでに900年頃にテンポに関する文字が存在したが、ただしそれらは今日さまざまに解釈されている。ネウマの上にC(Celeriter 速い)、M(Mediocriter 中庸)、T(Tarditer ゆっくり)のような文字が置かれるのである。役割分担をともなった受難の章句の朗読において、こうしたテンポの相違は極めて顕著となった。悪人たちは常により速く語った。人物がより神聖になればなるほど、リズムもゆっくりとなり、キリストの言葉は非常にゆっくりと、賛歌のように朗誦された。この原理から非常に多くのものが17世紀にレチタティーヴォへと取り込まれたのである。」

この様にギリシャ音楽から説き起こして、ヨーロッパ音楽におけるテンポに関する歴史的な考察を理路整然と述べられている。「われわれの進歩信仰が誤りであるということである。」とも言っておられて、現代が中世より進んでいると考えることの間違いを指摘された。とても全文をご紹介できないので、重要と思われる箇所のみ引用致します。

「正しいテンポとは、合唱やオーケストラの編成の大きさ、その空間の音響等を考え合わせながら決定されるものだから、硬直した規則などはあったこともないし今もない。」
モーツァルトは異常なほどニュアンスに富んだテンポ用語を用いている。」
「われわれは様々な(自筆譜)の訂正から特に多くを学ぶことが出来るのである。それを見ることが出来るのは、残念ながら自筆譜のみであって、一般の出版楽譜では分からない」
即興はまさに様式と時代とに密着しているからである。」
即興演奏と装飾は、かねてから大きな能力とファンタジー、極めて繊細な趣味を必要とする芸術とみなされてきた。その事によって演奏はそのたびごとに、ただ一度であって反復は不可能であるという性格を手に入れたのである。」
「歌手や独奏者の技術の高さを示すだけの装飾は価値がなく、空虚な名技性にほかならない。装飾には
内的必然性がなくてはならず、作品に内在する表現は、そのことによって全く個人的な方法で強化されるのである。」

アルノンクール先生は、作品の演奏に関してはこれが正しい唯一のテンポというものは在り得ないと言っておられます。演奏者や指揮者の音楽的感性と能力の全てが、テンポによる表現という只一つしか選択できないその時の決定において露呈するということではないでしょうか。作曲家の意図したテンポはどの様なテンポであったのかを最早知ることは出来ないので、再現者が音楽的能力の全てを投入して演奏や指揮をするその日のテンポがあるだけであります。同一の演奏者や指揮者の場合でも、別の日の演奏ではまたテンポは異なるのであり、まったく同一のテンポの再現もまた有り得ないのであります。また、作曲者自身の演奏記録があったとしても、そのテンポがその作品にもっとも正しいテンポであるという保証はありません。その曲の再現の専門家となった指揮者の方が、その作品に最も相応しいテンポを知りえる可能性もあるからであります。音楽におけるテンポの問題は永遠のテーマでありますから何人も、テンポに関して結論めいた発言をする者がいればその人は音楽の歴史を知らない者に過ぎないということでしょう。

テンポこそ生きるも死ぬも歌の道、極め尽くさばこころ開けん!

To kill or live tempo is always critical in the music of songs !

English

20 Jul 2003 Litto Ohmiya

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「古楽とは何か」 N.アルノンクール 樋口隆一他訳 (1997) 音楽の友社

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