タイトル | : Re: 「アーミーン」について。 |
投稿日 | : 2008/03/16(Sun) 01:35 |
投稿者 | : うんむらふま <ummu_rahmah@infoseek.jp> |
突然失礼致します。
少しお話させてください。
手持ちの書籍で、少し調べてみました。
ご判読願えれば幸いです。
アラビア語アーミーンの語根である‘‐m‐nは、セム系の言語において“確かな”という基本的な意味をもち、ユダヤ教、キリスト教も同じ語根から派生したアーメーン、アーメンという言葉をそれぞれ儀礼に用いる。“しかり”“かくあるべし”を意味し、同意の応答を示す表現。アーミーンの言葉は、おもにクルアーン第1章であるファーティハ章の読誦の後に述べられる。金曜日の集団礼拝では、イマームがファーティハ章を読誦し、他の礼拝者はこれを聞くのみであるが、その読誦直後に全員で同時にアーミーンと述べ、ファーティハ章の内容への同意の応答を表現する。この言葉は一斉に述べられることでムスリムの共同体の統一性を表現しているともいえる。
キリスト教会では、「祈り」のあとに「アーメン」と唱和するが、これは「そうです、そのとおりです」という強い肯定、同意を表す言葉である。他の人が祈った「祈り」に、「アーメン」と唱和することは、その人の「祈り」に同意し、「ぜひ聞いてください」と自分も共に神に祈ることになる。
ユダヤ教のシナゴーグで捧げられるリタージュ(吟唱祈祷)は次のようなしめくくりの祈り「カデーシュ」で終わる。「願わくは、神の偉大な御名が、神の御旨によって造られたこの世界であがめられんことを。願わくは、神の国が、汝の生涯に、汝の日々の生活に、(略)、速やかに来たらんことを。然り、アーメンと唱えよ。」
今日のイラク南部、ティグリス・ユーフラテス両河およびイラン西部、カールーン・ディズ両河の河岸の指定地区に居住するサービ教徒は、現地ではメンド(マンデ教徒)と呼ばれているが、正式にはサービ教徒(サービウーナ)と名づけられている。サービ教という名は『コーラン』(5・69ほか)に出てくるサービア人(サービ教徒)に由来するが、『コーラン』のサービア人(複数形でサービウーナ)というのは何をさすか、古来論争の的であった。南イラクのマンデ語(アラム語の一派)を話す人たちは、隣人であるアラブ人によりスッバ(洗礼を行なう者)と呼ばれており、『コーラン』のサービア人はこれと同じと考えられるようになった。古代ユダヤ‐キリスト教、グノーシス派の伝統を継承し、洗礼を重視することから、近世になりこの人たちは「バプテスマ(洗礼者)のヨハネ」の後裔と思われて注目を浴びたが、これは認識されていない。マンデ語・マンデ人という呼称は、サービ教徒が保持する経典にしばしば使われているマンダ(秘密の知識)から出ている。
ノアの箱舟の洪水は、人類の罪に対する刑罰であり、その裁きから救いをもたらすものはノアの無垢な信仰心だけであるとされ、ノアの信仰心は擬似的な洪水体験としてバプテスマの儀式へと発展した。バプテスマ(浸す)は、水に体を浸し清めをなす洗礼儀式であるが、後期ユダヤ教では、異邦人がユダヤ教に改宗する時にこの儀式が行なわれたとある。
アーミーンは、アラビア語で書くと、I(アリフ)・m(ミーム)・y(ヤー)・n(ヌーン)ですが…お話いただいたこれらは神秘主義の思想を反映しているように思われますが、いかがでしょうか?
専門外で極めて私的考察を申し上げましたが、とても興味深く本に夢中になる時が持てて、とても楽しかったです!お礼申し上げます。
もっと、歴史的な背景を学ぶ必要がありそうです。