東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内八旛神社

八旛神社

   新居浜の川東地区で一番大きな神社が八旛神社で、ここも太鼓祭りの時には「かきくらべ」の会場となる。
 「かきくらべ」を行うのに充分な広さの境内である。

 「かきくらべ」での破損予防のためか、石造の灯籠などの下には保護柵を接続するフランジがあり、境内の隅には保護策が置かれていた。

 「新居浜市史」には以下のように記されている。

     八旛神社 

 応神天皇、神功皇后、比売大神を祭神として平安時代、山城石清水八幡宮の別宮として奉斎したのに始まり、代々河野氏の崇敬を受け、また源頼朝が平家追討に際し、別当円長に平家追討の祈願を命じ太刀一振を奉納した。
 また当社は禁裡仙洞御所並びに今出川家等の崇敬を受けていたが、天正13年(1585)小早川隆景の兵火に焼かれ、社殿、社宝を失った。 
 幕末の頃、垣生の勤王家三木左造の宅に滞在中の沢三位宣嘉が、当社に絵馬を奉納し、また天正陣後、長州毛利家に異変あり、これは天正13年(1585)7月、小早川氏が当社を焼いたたたりとして萩の城下に伊予八幡を祀り、神慮を慰め、石鳥居一基を造って八幡神社に奉納のため船に積載して垣生海岸に到着したが、たまたま一宮神社境内にも伊予八幡と呼ぶ神社が存在するため、何れに奉納すべきか、全く判定に困り入り、石鳥居を沖に投じたまま萩に帰ったと伝えられていたが、大正の初年その伝説の鳥居が垣生の海岸から引揚げられ、現在八幡神社の内玉垣内に石鳥居の笠の一部が保存されている。
 また、八旛神社の秋祭は、一宮神社の秋祭と相並んで豪華壮麗の太鼓台を以て知られている。



 八旛神社の南側、道路を越えたところにも参道が続いている。  八旛神社の裏側は大きな松林となっている。
 
 八旛神社も天正13年の天正の陣では、兵火に焼かれて焼失している。

 また、天正の頃にこの地域を治め、天正の陣で討死した高橋丹後守大宅朝臣光国の宇高不留土居城という平城もこの近くにあったという。

 城があったことの面影は今は残っていないが、八旛神社の南西側に不留土居城の弓の練習場があったといわれる旧称、「的場」という所があり、「的場の松」の碑が建っている。