東人の新居浜生活/新居浜見聞録
/東方見聞録 2001
東方見聞録 2001
2000年の年末から2001年の新年にかけて、東人一家は関東に帰省した。
昨年と同じく、新幹線で帰省した。
銀座 | 【新着】(2001/01/10) | |
日本橋 | 【新着】(2001/01/12) | |
上野 | 【新着】(2001/01/14) | |
都営大江戸線 | 【新着】(2001/01/25) | |
東京タワー | 【新着】(2001/02/14) | |
楠公銅像 | 【新着】(2001/02/16) | |
去年、帰省した時は、Y2K問題のためか東京のホテルは混んでいて、たまたま空いていた新宿のホテルを予約して泊まった。
今年はそれほど混んではいないようで、宿泊する場所を選べた。
千葉や神奈川への移動に便利な銀座のホテルを確保した。
銀座と言えば、かつては、妻の庭のようなものであったが・・・・。
東京に着き、銀座のホテルにチェックインした。
銀座に泊まるということで、妻はウキウキしていた。
食事のため、銀座の街に出かけた。
妻が昔によく出かけたレストランに行こうとした。しかし、そのレストランが見つからない。
銀座の三越と松坂屋の間に有ったそうだが、今は無くなっている。
それでは、ということで別の店に向かったが、そこも無くなっている。
妻は浦島太郎になった気分のようだった。
妻の知ってる他のレストランもあったが、そこは予約が無いと入れなかった。
食事をする場所を探して銀座を歩き回った。
娘が店の看板を見て「「やらと」ってなに?」と聞く。
「これは、「とらや」と読むんだ」と答える。
最後に、博品館(玩具屋)の上にある「壁の穴」(パスタ店)に行き、そこは今でも営業していた。
やっと、食事にありつけた。
しかし・・・・やはり東京は物価が高い。新居浜付近で食事した場合の5割増しほどの料金であった。
食後は、娘は玩具の宝庫の博品館で色々と見て回っていた。
ロボット犬が欲しいと言っていたが、「そんな物、荷物になるからダメだ。」と断った。

翌日、銀座から日本橋に出かけた。
日本橋は妻の勤めていた会社の近くであるが、昔はよく出かけてという東急のあったところは建物が壊されていた。
代わりに、このような大きな緑のモニュメントが作られていた。このモニュメントについては新聞で知っていたが、かなり大きなものであった。
日本橋付近でも、妻が昔に利用していたレストランなどが姿を消していた。
日本橋でも浦島太郎の妻であった。
高島屋は健在であった。10:00の開店少し前に高島屋に行き、開店を待った。
開店後、地下の食料品売場に向かった。
妻が実家に持っていく手土産を買いに行ったが、開店直後の時間であったが店内は大混雑の状態。何が目当てか分からぬが、ある売場には既に長い行列ができていた。
妻が買い物をしている間に、売場を見ていると、魚売場では、中型の鯛が2匹で\3,000の値段がついていた。
新居浜では、大きい鯛でも1匹\1,000程度である。 やはり東京は物価が高い。
その後、妻は FAUCHON の売場を探したが、すぐには見つからない。
昔はこのへんに有ったはずだが・・・というが、他の売場である。
FAUCHON の売場は確かにあったが、売場面積は昔に比べて小さくなっていたという。
お目当ての FAUCHON のクロワッサンは置いていなかった。

高島屋で買い物をした後、地下鉄銀座線で上野に向かった。
上野駅について、妻は常磐線で松戸に行き、東人と娘は上野の科学博物館に行くことにした。
その前に、東京に来て何処に行きたいか娘に聞いたが、ディズニーランドには行きたくないと言った。
それでは、科学博物館はどうかと尋ねた。科学博物館には本物の恐竜の骨やミイラなどもあることを話したら行きたいという。
そこで、科学博物館を目指して歩いていった。
手前の西洋美術館は休館になっていた。嫌な予感がした。
科学博物館に到着したが、ここも休館であった。
屋外に展示されている鯨の模型とSLのD−51を見て、上野公園を散歩することにした。
東人の記憶では、科学博物館の前には鯨の骨が展示されていたはずであったが、鯨の模型に変わっていた。
SLは昔は無かった。
上野公園を歩いていると、上野動物園の入口が見えてきた。
入口の方に行ってみるが、ここも休園であった。
やはり、年末には閉まっているところが多い。以前にも、年末に葛西臨海公園の水族館に行こうとして閉まっていたことがあった。
上野の西郷隆盛像を見て、少し休憩してから、東京タワーに行くことにした。

東京タワーまで地下鉄で行くことにした。
東京タワーの最寄りの駅は都営御成門であり、上野から御成門までのルートを考え、上野御徒町まで歩き、新しくできた都営大江戸線で春日まで行った。
大江戸線の電車は車両全体には携帯電話の宣伝が描かれていた。
途中に本郷三丁目の駅があった。丸の内線の本郷三丁目は東人が学生時代に通った駅であり懐かしかった。
春日から都営三田線に乗り換えて御成門で下りた。

御成門の駅から東京タワーまでは少々歩いた。
東京タワーにつき、エレベーターで展望台まで行き、東京の風景を眺めた。
娘はさらに上の展望台に行きたいという。
追加料金を払い、展望台に登った。
あまり天気が良くなかったせいか、遠くは霞んでいた。
東京タワーといえば、東人が今の娘より小さい頃に父に連れられて兄と三人で登ったことがあった。
その時は、エレベータを使わず階段を歩いて展望台まで登った記憶がある。
それ以後は、関東に住んでいても東京タワーに行こうとは思わなかった。
東京タワーに登る人は、地方から出てきた人が多いのだろうか?。
展望台から下りると、トリックアートの会場があり、娘が行きたいと言うので入った。
ここでは、色々な「だまし絵」が展示されていて、トリック写真が撮れるようになっていた。
トリックアートを出て、2階にある蝋人形館については娘に気づかれないように1階まで下りたが、次に1階の水族館に行きたいと言い出した。
東京タワーの水族館は、小さな水槽に多くの魚類が飼われているものであった。
一つ一つ見ていくと、かなり疲れるものであった。
水族館を出て、また地下鉄の駅まで歩くのは疲れるので次の目的地までタクシーを利用した。

東京タワーからタクシーに乗った。タクシーの運転手に、東人が行きたいと思った場所に行くように伝えた。
それは、楠正成の銅像であった。
タクシー運転手は、最初は何処にあるかわからなかったようだ。地図を調べたりしながら、銅像の近くまで運んでくれた。
タクシー運転手は、運転手をして7年になるが、楠正成の銅像に行くという客は始めてだと言った。
確かに、東人も以前に関東に住んでいたが楠正成の銅像を見ることは無かった。
2000年の末に、新居浜で「産業遺産モデル学習講座」というものが開催され、末岡照啓住友史料館主席研究員の講演の中で楠公銅像の話を聞き、この銅像が別子銅山の銅で作られたものであることを知って見てみたいと思っていた。
楠正成の銅像は見事な芸術作品と感じた。
住友が今の東京芸術大学に依頼して作成した最初の銅像であり、その後も住友が幾つかの銅像制作を東京芸術大学に依頼したという。
芸術は制作を依頼するスポンサーの存在により成長するものであり、東京芸術大学の彫刻科は住友の依頼により成長したという話であった。
楠公銅像を見てから、近くの地下鉄の駅から次に向かった。
