東人の新居浜生活/近郊の観光地ちょっと遠出(日帰りで行ける所)松山方面子規堂

子規堂


   松山市駅の近くに子規堂がある。
 入り口には、「正宗禅寺/子規堂」と書かれているが、正岡子規の住居を正宗禅寺の境内に移設したものである。
 入り口には、七福神御像、斎藤茂吉や与謝野晶子の歌が書かれていた。
 
 正宗禅寺の 墓に
  まうでて 色あせし
 布団地も見つ 君生けるがに   斉藤茂吉
 
 子規居士と鳴雪翁の居たまえる
 伊予の御寺の 秋の夕暮れ  与謝野晶子
 
 また、「正岡子規埋髪塔并子規堂」とも書かれていて、埋髪塔もあったはずであるが確認していなかった。
 
 正宗禅寺境内の左手に子規堂がある。
 
 また、子規堂の前には坊っちゃん列車や野球の碑が設置されている。


史跡

子規堂へようおいでたなもし

 
 正岡子規、本名正岡常規。慶応3年9月17日松山市に生まれる。明治35年9月19日36歳で死去。
 子規17歳、我が国にはいって来たベースボールを幼名から升(のぼる)と野の球とをかけ合わせて野球と云う言葉をつくったと云われる。
 やがて松山の地に初めて野球を伝えた。
 明治25年日本新聞社の社員となる。
 日清戦争に従軍記者で活躍、28年東京時代の学友であった夏目漱石が松山中学の教壇にたっていた。
 
 漱石の下宿、愚陀仏庵に子規が同居し、この時松山の新派俳句は興ったと云われている。
 新聞「日本」の俳句雑誌、「ホトトギス」等によって子規は日本新派俳句を全国に普及させた。
 また、叙事文、写生文を提唱し当時の小説家達に影響を与えた。
 子規堂は文学なかまであった正宗寺住職仏海禅師が業績を記念して子規が17歳で上京するまでの住居を、寺の中にのこした。
 子規堂前の「坊っちゃん列車」は漱石の小説「坊っちゃん」でも有名である。
 
 
 
 

坊ちゃん列車の客車

 
 この箱車は、いまから80年ほど前 伊豫鉄道株式会社が創業当初の明治21年10月28日に、松山-三津間(料金3銭5厘)に開通した我国最初の軽便鉄道の客車であります。
 夏目漱石先生の小説、坊っちゃんでは「マッチ箱のような汽車だ」といわれ、以来、坊っちゃん列車の愛称で全国に知られています(この列車の機関車は梅津寺遊園地に展示してある)何しろ米が一升4銭5厘という時代に、独逸から組み立てたまま木箱に詰めて機関車と共に運ばれてきたものですが、あれから50年間、雨の日も風の日も走り続け、ある時は強い風に吹き倒されたり、又ある時には牛に衝突して脱線した。
 枯野原汽車に化けたる狸あり  漱石
 等々、いま考えると嘘のようなほんとうの逸話がたくさんあります。
 文化はレールと共に伸びるといわれるが、子規も漱石もこの客車で道後温泉へ通ったものと思うと、気が遠くなるような郷愁と時代の流れを感じさせられるのであります。
 
 
 
 

「坊っちゃん」を書いた人 夏目漱石

 
 停車場はすぐ知れた。切符も訳なく買った。乗り込んで見るとマッチ箱の様な汽車だ。
 ごろごろと五分余り動いたと思ったら、もう降りなければならない、道理で切符が安いと思った。たった三銭である。 
小説「坊っちゃん」より
 
 

子規と野球の碑

 正岡子規は、わが国野球草創期に選手として活躍、明治20年代 はじめて松山の地にこれを伝えた。最も早くベースボールの技術、規則を訳述解説し、その妙味を強調して ひろく世に推奨「野球」の名づけ親と称される。また短歌、俳句、小説などの文学の題材にはじめてこれをとり入れた。実に子規は球界の先駆者であり、普及振興の功労者である。
 
 打ちはづす球
  キャッチャーの手に在りて
   ベースを人の行きがてにする
 
 今やかの三つのベースに人満ちて
   そぞろに胸の打ち騒ぐかな
 
 

 打ちはづす球
  キャッチャーの手に在りて
   ベースを人の行きがてにする
 
 今やかの三つのベースに人満ちて
   そぞろに胸の打ち騒ぐかな
 
 ベースボールの歌(九首のうちの二首)は新聞「日本」に明治31年5月24日発表。
 若き日の子規はスポーツマンで野球に熱中して「ベースボールほど愉快にみちたる戦争は他になかりべし」と書き残している。(明治21年「筆任せ」)
 
 俳句の里 城下コース35番
松山市教育委員会

 

 朝寒や
  たのもとひびく内玄関
   
正岡子規 (1987〜1902 慶応3〜明治35年)

 
 愚陀仏庵に漱石と同宿していた子規が明治28年10月7日、今出の村上霽月を訪れる途中、住職で俳人の一宿和尚を誘うため正宗寺へ立ちより、案内を乞うた時の趣をそのまま句にした。句碑の文字は「散策集」の筆蹟を拡大。
 
松山市教育委員会

 俳句の里 城下コース36番