子規堂へようおいでたなもし 正岡子規、本名正岡常規。慶応3年9月17日松山市に生まれる。明治35年9月19日36歳で死去。 子規17歳、我が国にはいって来たベースボールを幼名から升(のぼる)と野の球とをかけ合わせて野球と云う言葉をつくったと云われる。 やがて松山の地に初めて野球を伝えた。 明治25年日本新聞社の社員となる。 日清戦争に従軍記者で活躍、28年東京時代の学友であった夏目漱石が松山中学の教壇にたっていた。 漱石の下宿、愚陀仏庵に子規が同居し、この時松山の新派俳句は興ったと云われている。 新聞「日本」の俳句雑誌、「ホトトギス」等によって子規は日本新派俳句を全国に普及させた。 また、叙事文、写生文を提唱し当時の小説家達に影響を与えた。 子規堂は文学なかまであった正宗寺住職仏海禅師が業績を記念して子規が17歳で上京するまでの住居を、寺の中にのこした。 子規堂前の「坊っちゃん列車」は漱石の小説「坊っちゃん」でも有名である。 |
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