東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内別子ライン

別子ライン

 
 市内中央部を流れる国領川上流、足谷川に架かる朱色鮮やかな生子橋からマイントピア別子、鹿森ダム、遠登志渓谷、清滝を経て河又に至る延長約10キロメートルの渓谷景勝地で、昭和30年(1955)にその大部分が県の名勝に指定されました。
 新日本百景のひとつであり、また、四国郵政局の四国20景、朝日新聞社主催の四国の自然100選にも選ばれている市内随一の観光地です。
 
 別子ラインという名は、ドイツを流れるライン川の渓谷美にあやかって名づけられました。
 特に、春の桜、初夏の新緑、秋の紅葉は美しく、たくさんの観光客が訪れています。
 鹿森ダム湖(別子の湖)へと流れる小女郎川に架かる遠登志橋(おとしはし)は、全長50メートル、幅2メートル、高さ約23メートルの観光用ワイヤーロープ吊橋として生まれかわり、遠登志の渓谷美が鑑賞できます。
 また、落差約60メートルを誇る清滝は、えひめ自然百景のひとつにも選ばれ、滝の周辺には休憩所と展望所が整備され、ゆっくりと豊かな自然に接することができます。


 
生子橋由来

 
 生子山には南北朝時代南朝の忠臣越智俊村が、砦を設けて北朝側の細川軍と戦い、室町末期には松木三河守がここに拠って小早川隆景の大軍と戦った。

 明治二一年現在の別子銅山記念館前広場に山湿式精錬所が設けられ、それと同時に両岸を結ぶための生子橋が架設され、山頂には大煙突が建設されたことにより、人びとは以来煙突山と呼称し、昭和三年五月精錬所跡に大山積神社を奉斉し、昭和四八年別子銅山閉山後、神社境内の一角に別子銅山記念館を設立した。
    
 この橋下の立川渓谷の流れは別子ラインの関門として甌穴(おうけつ)群がならび、美しい碧潭(へきたん)には、龍神伝説とちきり淵の物語が伝えられている。
 
 昭和五八年一月吉日
 新居浜市長 泉敬太郎読す
 


 2008年、市内の10箇所に産業遺産説明板が設けられ、生子橋の前にも説明板が設置された。


 
昭和15年の生子橋(写真撮影:小笠原誠雄氏)

生子橋
 
 最初の橋は、山根製錬所の関係で二ヶ所にあった。一つは現在の橋の上流の大 師堂の所に鉱石を山根製錬所に搬入するために架けられていた。もう一つは現在の橋の下流 50mの角野小学校の所に別子鉱山鉄道の山根駅と製錬所の連絡のために架けられていた。明治32年(1899)の別子大水害のときに二ヶ所とも流失した。その後、現在の橋の下流100mのところに木橋が架けられていたが、大正14年(1925)に現在の所に木製朱塗りの橋に架け替えられた。
 別子銅山の新年行事の大ノ祭式に奉納された大ノは、昭和4年(1929)から昭和37年(1962)まで別子鉱山鉄道で端出場駅から山根駅まで輸送され、角野新田の大山積神社まで担いで運ばれた。昭和35年(1960)9月に新田橋が架かるまでは、生子橋を通っていた。昭和58年(1983)に老朽化したので現在の鉄筋コンクリート製の朱塗りの橋に架け替えられた。
 生子橋は景勝地の別子ラインの関門にあたり、春には桜と朱塗りの橋とが映える。かつて河東碧梧堂が、この渓谷の佳景を絶賛して臥竜峡と命名した。前田伍健は「絶景は どこに佇っても 座っても」と句を読んでいる。
 しょうじばし
小学生用解説

 この橋は、何度か架け替えられ、1983年に今の鉄筋コンクリート製にか架け替えられた。昔の橋は、山根精錬所(今のえんとつ山にあった工場)に主に鉱石を運ぶ時に使われていた。
新居浜市
 

新居浜のむかしばなし(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より
 

 
ちきり淵

 昔、新居浜市角野の生子山城主松木三河守という殿様に、八千代と呼ぶかわいい娘がありました。その娘がお嫁に行くことになり、嫁入り衣装の反物を機織りの達者な、城下町の「お松」と呼ぶ娘に頼みました。
 その期限は十月の二日から十月の末日までということでした。「お松」はその日から、夜も昼もけんめいに織り続けるのでした。二八日に織った反物の数をしらべて見ると、まだ数反足りないので、またまた力のかぎり織るのでした。その翌二九日朝、考えて見ると、その日が期限でした。というのは、昔の旧暦十月は二九日が最後の日でしたから。
 
 夕方まで織ってもだめだと思いました。「お松」は、約束を果たせないことを悲しく思いました。そんなことなら初めにお断りしておけばよかったのにと、右手に「ちきり」を持ったまま考えこみ、一人涙を流して泣くのでした。
 「お松」は「ちきり」を手にしたまま西に向かって走りました。そうして龍川の流れの岸のほとりに座りました。
 底の知れないほどものすごく青く澄んだ水、それを一人で見ていました。水の底には美しい世界があるのだ。「お松」はそのように思いました。
 ついに身をおどらせて、深い淵に身を投げました。
 それからのち、夜になるとこの淵のどこからともなく、「お松」が機を織るときの「ちきり」の音が聞こえてくるようになりました。
 その後、誰いうとなく、この淵を「ちきり淵」と呼ぶようになりました。
 

 別子大山不動明王
 
 この不動明王は、かつて、東平の喜三谷(きぞうだに)にあったもので、昭和43年(1968)の東平坑閉山の後、こちらに移されとのこと。


 渡瀬

 山の色が一部違った所が見える。
 この付近を「渡瀬」とよび、山崩れがあった所だという。

 吊り橋