東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内マイントピア別子第四通洞


第四通洞


   鉱山鉄道の鉄橋の先に第四通洞の入口がある。
第四通洞の入口であるため、この橋は「四通橋」と呼ばれている。
 
 2008年、市内の10箇所に産業遺産説明板が設けられたが、四通橋の前にも「第四通洞・四通橋」の説明が設置されている。


第四通洞

 
 輸送の合理化を図るため明治43年(1910年)に着工し 大正4年(1915年)に開通した別子銅山の大動脈です。
 長さ約4600mの水平通洞でアーチ型の堅固なトンネルの入口には 住友家15代家長住友吉左右衛門友純氏の筆による「第四通洞」の端正な文字が深々と刻まれています。
 
 
昭和30年代の端出場出坑(住友史料館蔵)

第四通洞・四通橋
 
 14番坑道準の海抜156mにある端出場坑口と大立坑を結ぶ輸送路で、明治43年(1910)に開鑿に着工し、大正4年(1915)に貫通した。通洞の延長は4,596m。工事には、インガーソル式圧縮機、フランクリン式圧縮機を動力とする削岩機が使用された。採鉱場も更に下部へと移行したことから鉱石の搬出は第三通洞から第四通洞に移り、昭和5年(1930)には、採鉱本部が第三通洞のある東平から第四通洞のある端出場に移転した。 その後、筏津下部に向けて、延長5,100mの探鉱通洞が昭和10年(1935)から開鑿され、昭和17年(1942)に貫通し、全長約10,000mの大通洞になり筏津坑の操業にも大きく貢献した。昭和48年(1972)の別子銅山休山までの間、大動脈として活用された最後の水平坑道。端出場と大立坑道プラット間には、トロリー電車を走らせていた。  四通橋は、大正8年(1919)に大動脈の第四通洞に接続したトラス橋として足谷川に架る橋として開通した。大正12年(1923)から全坑水を第四通洞から排水することになり、四通橋の東側に坑水菅が通っている。

 だいよんつうどう・よんつうきょう
小学生用解説

 第四通洞は、1915年に完成した、輸送のために水平に地中深く掘られた大きなトンネルである。トンネルの長さは、4,596m。トンネルは更に掘り進められて1942年には、およそ10,000mの長さになった。  四通橋は、1919年に、第四通洞と結ぶ橋として開通した。
新居浜市
 




第四通洞のあらまし

 
 明治時代に入ると採掘技術が進み、鉱体に似合う効率の良い設備の大型化が必要となった。
 明治43年(1910)に約4,600米の第四通洞を掘り始め、又明治44年(1911)には第三通洞の奥から大立坑約600米を掘り、第四通洞と連絡する工事が始まった。
 この工事は大正4年(1915)の秋に貫通して中部地域の開発や採鉱がしやすくなり、鉱石や資材、坑内作業従事者の出入などが容易になった。又坑内の空気流通や坑内水の排出経路も改められて文字通り別子銅山発展の大動脈となった。
 
 昭和10年(1935)から、別子山村の余慶・筏津地区の鉱石は探鉱通洞・第四通洞を経てこの坑口から運び出されるようになった。
 又昭和35年(1960)採掘が海面下深部になったこともあって第四通洞のそばから約4,500米の大斜坑を掘り始め昭和44年(1969)からは深部(-960米)の鉱石をスチールコンベアベルトによって連続して運び出された。
 
 第4通洞・探鉱通洞・大斜鉱は別子銅山の両輪として昭和48年(1973)の閉山までその役割を果たした。
 
 この坑口は約60年にわたって毎日約1,000人の入・出坑を見守り続けてきた。
 ほかの坑口もみな同じだが、坑口を通る者は皆ここに祀ってある守護神大山祇神に頭を下げ御加護を祈った。
 

 地中に はたらくことは 慣れながら
   皆大山祇に 礼して這入る

川田 順

 
 

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