東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内旧別子木方焼鉱窯跡

木方焼鉱窯跡

 高橋精錬所を過ぎた山道にも、所々に説明の立て札が立っているが、回りを見渡しても普通の山林で、それらしい形跡が認められないことが多い。
 
 山道から、かつては見えていた対岸の遺構の説明もあるようだが、今は樹木が生い茂り何も見えない。
 
 この辺りでは、焼鉱窯が並んでいたらしく、石積の一部が確認できた。

旧別子案内 No 11
 木方焼鉱窯跡と重任局跡
 
 この辺りは、木方とよばれ道の上部一帯には焼鉱窯(鉱石のむし焼き炉)が並び、道の下方、足谷川の川べりには鉱夫の住宅があり、南口に近い方には明治25年目出度町から移された重任局(鉱山事務所)があった。
 
 重任局の屋根の上には「やぐら太鼓」(明治2年設置)がおかれて、山中10,000人余の住民(従業員数2.300人)に時を知らせていた。重人局には、当時鉱山支配人をはじめ多くの職員が勤務し、銅山の中枢を形成していた。
 
 

旧別子案内 No 15
木方部落跡(対岸)

 
 対岸一帯を木方といい、道をはさんで上下に多くの焼鉱炉が、河原から上の樹林の中には、建屋や住宅がびっしりと並んで建っていた。
 正面に見える石垣は明治25年(1892)目出度町から移転した、重任局(鉱山事務所)の跡であり、その左側には勘場(会計)が並んでいた。目出度町と木方との間には、足谷川を挟んで多くの橋や暗渠があり、橋脚の石積みがここからよく見られる。
 この先の谷が両見谷、つづいて見花谷で、下部の樹林の中には、鉱夫の住宅が密集して建てられていたが、明治32年(1899)8月の台風で、見花谷の部落は山津浪によって下の川に流され、多数の死者(全山で513名)が出た。
 
 

別子銅山図巻 第六図 焼かまどの図
  
 鉱石を焼き、銅を硫黄分と分離させる装置である。かまどの底に薪をしき、その上に鉱石を並べ、さらに薪と鉱石を交互にかまど一杯に敷きならべ、わらやむしろなどで厚く覆い、水を打ち下の口から火をつける。大体三十日から五十日位でやけるから冷えてから引き出す。
 この煙は硫黄分があるため、近づけない程のすさまじい光景であるが、この間時々水を注ぎながら焼きつづける。
 最初に一千貫の鉱石を入れると二割ないし三割方減って銅・鉄の酸化物、石英および残留した少量の硫黄を含有した約七、八百貫の焼鉱となる。

木方吹所と裏門

 
  明治20年頃の木方吹所(精錬所)を南側から見上げた風景である。
  中央左寄りに土橋があり、その右下で谷が分かれている。
 右が足谷川で左の方を奥窯谷という。足谷川に面して右の山側に立ち並ぶのは木方吹所である。
 この時点では高橋精錬所よりもこちらの方が産銅量は勝っていた。
  左上から斜めに箱樋が掛り、その左で白煙が上がっているところは明治13年から生産が始まった最初の湿式精錬所(沈殿銅)の施設であろう。
  左の巨大な両面石積の向こうは木炭倉庫で、その真上にも石積みが天に尽きだしている。
 当時の和式製錬では1トンの銅をつくるのに4トンもの木炭を使っていた。
 木炭は食糧に次ぐ貴重な物で、従って銅蔵や木炭倉庫の建ち並ぶ鉱山の心臓部の入口は石垣や柵で厳重に囲まれていた。
 因みにこの辺りを裏門と呼んでいた。
 
 
【No 12】 見花谷と両見谷部落跡

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