東人の新居浜生活/近郊の観光地その他近場川之江

川之江城

 新居浜に住んでいた頃には、新居浜より東側の辺りは通過するのみであった。
 2006年に仕事で川之江に行く予定が入り、川之江のホテルに泊まった。
 
 以前は、川之江市であったが、現在は伊予三島市等と合併して四国中央市となっていた。
 川之江の街から、山の上のお城が見える。
 
 川之江に宿泊した時の朝、城の方まで散歩してみた。
 
 城のある山の麓まで行き、登る道を探して坂道を上り、頂上にたどり着いた。
 櫓門を潜ったところに天守閣があった。

天守閣


櫓門


涼櫓

川之江城史

 南北朝動乱の頃(約650年前)南朝方、広野氏の砦として、土肥義昌が延元2年(1337)鷲尾山(城山)に川之江城を築いた。
 興国3年(1342)北朝方、細川頼張春が讃岐より七千の兵を率いて攻めてきた。
 義昌は出城の畠山城主由良吉里と共に防戦したが破れ、城を落ちのびて各地を転戦した末、武蔵国矢口の渡で戦死をしている。
 細川氏の領有後、広野氏に返され、城主は妻鳥友春になった。元亀3年(1572)阿波の三好長治が攻めいったが、撃退している。
 土佐の長曽我部氏の四国平定の力に抗しきれなかった友春は、河野氏に背いて長曽我部に通じた。怒った河野氏は川上但馬守安勝に命じて、城を攻めとらせた。
 天正7年(1579)前後のことと思われる。川上但馬守は、轟城の大西備中守と戦い、討たれたという話も残っているが、天正10年(1582)長曽我部氏の再度の攻撃に敗れ、戦死落城している。その時、姫ヶ獄より年姫が飛び込んで自殺したという悲話伝説も残っている。
 天正13年(1585)豊臣秀吉の四国平定に破れ、小早川、福島、池田、小川と目まぐるしく領主が替わり、加藤嘉明の時、最終的に廃城となった。
 戦国の世も終わった寛永13年(1636)一柳直家が川之江藩28,600石の領主になり、城山に城を築こうとしたが、寛永19年(1642)病没。領地は没収されて幕領とない、明治に至ったため、わずか6年の「うたかたの川之江藩」で終わった。
 
 その後年月を経て城跡は、本丸附近の石垣に僅かに名残りを留めるに過ぎなかったが、川之江市制施行30周年記念事業として、市民の浄財を基に城の再建が計画され、昭和59年度より城山公園整備事業として着手した。
 建築にあたっては、日本城郭の権威者である東京工業大学名誉教授藤岡通夫博士の指導を受けた。
 昭和61年6月30日本丸跡に天守閣が完成した。涼櫓・櫓門・隅櫓・控櫓も順次完成し、園路広場の面整備の完了をもって昭和63年3月321日城山公園整備事業は全て完了した。


  川之江城山公園の中に、「えひめ森林浴八十八か所」の標識が建っていた。
 旧別子の銅山越えも八十八か所に選定され、八十二番であった。



 えひめ森林浴八十八カ所          
愛 媛 県
平成15年3月
 八十七番 川之江城山公園
 


一柳直家公陣屋跡

   フジ川之江店の近くに、「一柳直家公陣屋跡」の標識と説明があった。
 

一柳直家公陣屋跡


陣屋跡について

 
 一柳陣屋の広さは約88,000平方メートル以上の広さを誇り、東は栄町通り、西は新町沿いの区間まで、また、南は愛媛銀行やフジ川之江店、北は吉祥院や天神ノ森あたりまでを含む規模であった。
 一柳家が播磨小野に去ったあと、陣屋は半分に縮小され、新たに松山藩御預かり代官陣屋、幕府直轄代官陣屋となってからも、川之江は旧宇摩の政治の中枢として海陸交流の要衝とし、発展を続けた。