東人の新居浜生活/近郊の観光地新居浜市内広瀬公園亀池


広瀬公園 亀池



広瀬公園亀池の由来

 明治初年の頃、別子銅山では一万人余りの人々が働いていたので、その人たちの食糧となる米を確保することはとても大切なことでした。
 そこで、住友・廣瀬家は所有していた広大な中萩山麓に広がる畑地を水田に転換する計画を立てました。
 嘉永四年(1851年)から二ヶ年の歳月をかけ、灌漑用水池として高尾の地に鶴池、中之町(現在地)に亀池を築き、さらに安政五年(1858年)には、現在の中萩中学校の東側に岡之久保池を築きました。これらの池の水によって地域の人々が受けた恩恵は、はかり知れないほど大きく、毎年六月一七日には、五穀豊穣・家内安全を祈願するお祭りが盛大に行われていました。
 
 明治十年(1877年)に、廣瀬家は金子村久保田から上原の地に住まいを移して邸内に美しい日本庭園を築きました。
 さらに明治三十年(1897年)には公園として亀池を整備し、池の西南に守護神廣脇神社(唐津宮・高雄宮)を祀り、東南に亀の形をした中之島(千歳島)を築き、滋賀県竹生島から弁財天を勧請して美しい鋳鋼製美術尊像が祀られました。
 広瀬公園は、昭和四十三年三月五日に愛媛県から名勝地の指定を受け、昭和四十六年三月末日、当主廣瀬つぎ子さんから新居浜市に寄贈されたものです。
 

平成五年四月吉日

新居浜市教育委員会

 
 
 
  
 文化年間(1804〜16)に発掘された唐津塚
  
新居浜のむかしばなし(平成元年2月「新居浜のむかしばなし」編集委員会編 新居浜市教育委員会 発行)より
 
唐津塚

 
 上原にある。
 文化年間に助右衛門という人がこの石ぐろを掘りおこしたところ、美しい皿碗や盃などが出たが大石に突き当たり、ビクともしなかったという。
 その時この助右衛門は「気狂い、心乱れ、魚屠子刀を祀りて、自らその身を傷りしなどし、老いて後狂病わずかに治まりたりという」と西条史に書いてあります。

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