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高岡鋳物発祥の地に築かるこの橋は、高岡の地名の由来である詩経の一節「鳳凰鳴矣干彼高岡」から名付けられたものです。 このたび高岡市彫刻のあるまちづくり事業及び富山県文化性導入事業の一環として、本市のアルミ、銅器、鉄鋳物業界の協力を得、伝統ある鋳物のまちにふさわしい橋に改築されました。 中央の鳳凰はこの橋を象徴するものであり、親柱は、先人への感謝の念と将来の発展を願って合掌の姿を表してます。 高岡市 |
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昭和37年3月30日指定
江戸時代にはまだ時計が普及していなかったので町民に時刻を知らせる必要があった。それは規則的な生活を営み、共同社会の秩序を保ち、生産の能率を上げ災害を防止する上にも重要であった。 当時の高岡町奉行寺島蔵人は時鐘の鋳造を計画し藩の許可をえたところ、金屋町は前田利長以来の藩の厚い保護に報いるためその鋳造を願い出て文化元年1804)に出来上がった。そうして9月11日午前6時から二番町会所でつきはじめたが、間もなく鐘に割れ目が生じ改鋳にせまられた。 坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳物の声価を傷つけたことを悲しみ、自ら多額の金品を寄付し、浄財を集め工人を督励などして文化3年(1806)7月遂に見事な大鐘を完成した。 これがこの時鐘で、口径112糎・唇厚18糎・高さ197糎・重量2250瓩あり、鏡面一杯に皆川淇園の筆になる銘が刻んである。 以来朝夕高岡町民に親しまれてきたが、明治12年以降数度の火災により移転され、その後大仏寺に寄付されて今日に致っている。 昭和46年7月 高岡市教育委員会
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