東人の新居浜生活あかがね探訪あかがね探訪(1)

日本最大の銅なべ

 富山県高岡市は、江戸時代より銅器の製造が盛んな所で、高岡銅器は全国一といわれている。
 その高岡の駅構内に「日本最大の銅なべ」が展示されていた。
 
 
日本最大の銅なべ

 
 このなべは”いきいき富山冬の旅観光キャンペーン”のビックイベントとして、日本海なべ祭り(毎年1月中旬 高岡古城公園で開催)に使用した銅製のジャンボなべです。
 なべの大きさは、直径2メートル10センチ(6尺9寸)。深さ40センチ(1尺3寸)、重さ550キログラム(147貫)、容積1200リットル(ドラムかんで6本分)で高岡の伝統的鋳物技術技法の粋を結集して製作したもので、銅なべとしては日本一大きいものです。
 
 このなべで一度に約3000人分の料理ができ、日本海なべ祭りには富山湾でとれた冬の味覚タラ・カニなど大漁鍋を煮たてて観光客にめしあがっていただきました。
 なお、高岡地域地場産業センターにも同一型の鍋とアルミ製のジャンボなべを陳列しています。
 
              製作  高岡銅合金協同組合
                   伝統工芸高岡銅器振興協同組合
                   高岡銅器協同組合
              鋳造  梶原製作所
 
いきいき富山日本海なべ祭り実行委員会
          
 
 
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格子造りの街並み

   高岡の銅器は全国一と言われるが、その歴史は慶長14(1609)年まで遡る。
 加賀藩の二代目藩主・前田利長が、新たに高岡に城を築いた時、鋳物師を呼び寄せた。
 その数は合計11人となり、その鋳物師が城下町に住み着いた。
 その町が高岡の金屋町であり、鋳物師の店が格子造りの町並みとなった。
 最初は鉄の鋳物を製造していたが、江戸時代中期頃から銅の鋳物の製造が始まり、その後の技術革新を経て高岡の銅器は日本一となった。
 
 高岡の銅器製造は、南方の高岡銅器団地に拠点が遷っているが、昔からの銅器業者の店が並ぶ一帯は、格子造り街並みとして残っている。
 
 
 
 
 
 
 
 金屋町の入り口に小さな歌碑があった。
 
 ゐもの師はたのしかるべしみずからを釜ひとつにも出さんとする(寛)
 われ入りて鍋作りする廬にあるを夕日と思ふひろきかな屋に(晶子)
 
 昭和8年(1933)に金屋町の鋳物工場を見学した与謝野寛(鉄幹)と晶子夫妻の詠んだ歌である。
 
 
 
 
 

 
 高岡駅から金屋町に入る手前に千保川が流れている。
 その千保川に架かる橋に鳳凰橋という名前がつけられて、鳳凰の像が設置されていた。 
 
鳳凰橋

 高岡鋳物発祥の地に築かるこの橋は、高岡の地名の由来である詩経の一節「鳳凰鳴矣干彼高岡」から名付けられたものです。
 このたび高岡市彫刻のあるまちづくり事業及び富山県文化性導入事業の一環として、本市のアルミ、銅器、鉄鋳物業界の協力を得、伝統ある鋳物のまちにふさわしい橋に改築されました。
 中央の鳳凰はこの橋を象徴するものであり、親柱は、先人への感謝の念と将来の発展を願って合掌の姿を表してます。
 
昭和59年3月
     高岡市
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高岡大仏

 高岡にも大仏がある。
 日本三大仏の一つとのことであるが、三大仏については諸説がある。
 奈良と鎌倉の大仏は当然であるが、三番目には、岐阜、高岡、兵庫、東京および赤田の大仏が名乗りを上げているようだ。
 
 それはともかく、この高岡大仏も高岡の銅器製造技術で造られたものである。
 
 
 
高岡市指定文化財 銅造阿弥陀如来坐像
 (高岡大仏)
 昭和56年4月15日指定

 
 高岡大仏は、坂下町極楽寺第15世等誉上人が大仏建立を誓い、延享2年(1745)、木造金色の仏像を建立したのが始まりである。しかし、その像は文政4年(1821)に焼失、その後、天保12年(1841)に再興されたが、これもまた明治33年(1900)の大火で焼失した。
 現在の大仏は、篤信家の松木宗左右衛門が大仏の再建を発願し、明治40年(1907)に造営事業が着手された。その後、中川原町の萩布宗四郎らの協力により、二十有余年の歳月を経て昭和8年(1933)に全行程を完了、5月に開眼式が行われた。昭和55年(1980)に11メートル後ろへ下がった現在の場所へ移転・補修された。
 原型は中野双山。古式鋳造法である焼型重ね吹きの技法で、鋳型から着色に至るすべての工程を高岡の工人・職人達の手で行った記念すべき大作である。
 昭和33年(1958)に建載された円輪光背には、阿弥陀仏の仏徳を一字で表現する(キリーク)という梵字が頂点に配されており、大円輪の光背がそびえる大仏尊は世に珍しく、奈良・鎌倉の大仏とともに日本三大仏と称されている。
平成10年8月         
 高岡市教育委員会
 
 
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時鐘

   高岡大仏のある大仏寺の境内にある梵鐘には「時鐘」という名前がついている。
 この鐘も、高岡の銅器製造技術によりつくられたもので、時を告げるのに使われていたとのこと。


高岡市指定
文 化 財
 時 鐘 
昭和37年3月30日指定

 江戸時代にはまだ時計が普及していなかったので町民に時刻を知らせる必要があった。それは規則的な生活を営み、共同社会の秩序を保ち、生産の能率を上げ災害を防止する上にも重要であった。
 当時の高岡町奉行寺島蔵人は時鐘の鋳造を計画し藩の許可をえたところ、金屋町は前田利長以来の藩の厚い保護に報いるためその鋳造を願い出て文化元年1804)に出来上がった。そうして9月11日午前6時から二番町会所でつきはじめたが、間もなく鐘に割れ目が生じ改鋳にせまられた。
 坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳物の声価を傷つけたことを悲しみ、自ら多額の金品を寄付し、浄財を集め工人を督励などして文化3年(1806)7月遂に見事な大鐘を完成した。
 これがこの時鐘で、口径112糎・唇厚18糎・高さ197糎・重量2250瓩あり、鏡面一杯に皆川淇園の筆になる銘が刻んである。
 以来朝夕高岡町民に親しまれてきたが、明治12年以降数度の火災により移転され、その後大仏寺に寄付されて今日に致っている。

昭和46年7月 
高岡市教育委員会
 

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