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Tempo Infinito |
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村山先生、今晩は! 早いものでもう11月になりました。先ほど庭に出て来ましたが、虫の声の息絶え絶えの音を初めて聴きました。只一匹が間をやや長く置いて、平坦な音を短く鳴らすのが精一杯の様でした。気温も急に下がりましたので、虫達はもう適応する力もないのでしょう。地中に潜った幼虫が一年先に成長して這い出して来るまで、虫達の演奏を聴くことは出来ません。暫く庭に佇んで居ましたが、もう音は聞えませんでした。我が庭の最後の一匹の虫であったかも知れません。この静寂は虫の死によってもたらされたのでありますから、音楽表現における究極の無音ではありません。無音の前後に音が無ければ、究極の無音にはならないのですから。 さて、モーツァルトの音楽は「テンポによる表現」が決まっていることを、アルノンクール先生の発言を引用しながら、何度も申し上げて参りましたが、妙なるテンポの変化こそがモーツァルトの音楽の真骨頂であり、例え1000回続けて聴いても聴き尽くすことは出来ないという事実も指摘致しました。特にオペラにおいては、テンポでドラマを表現する手法を完成させたことは音楽史上最高の貢献であります。そしてモーツァルトの前の時代にも後の時代にも、そのことを成し遂げる作曲家は出ていないのであります。群を抜いて最高峰にして分水嶺にいることも、モーツァルト研究家の誰もが認める所であります。今年になってモーツァルトの全作品を聴き始めた処でありますが、新しい順に聴いていますので、現在はオペラは「ドン・ジョヴァンニ」、協奏曲は「ヴァイオリン協奏曲第7番、第6番」、「2つのヴァイオリンのためのコンチェルトーネ」、「ヴァイリンとヴィオラと管弦楽のための協奏曲」まで来ましたが、なかなか先へ進めないという幸せな悩みで一杯です! このまま1000回聴き続けても聴き尽くすことは出来ないのですが、それでは何時まで経っても128枚のCDを全て聞き終わる事が出来ないと云うのも、これまた幸せな悩みであります。 では何故に1000回続けて聴いても聴き尽くせないのかと言えば、それはやはりテンポによる表現に尽きるのであります。それはオペラの場合でも協奏曲の場合でも同じ事であります。「何故にこの時このテンポで表現されるのか?」と云う事が、素人である私には例え1000回聴き続けても解らないので、永久に聴き続けるしかないのであります。アルノンクール先生もモーツァルトの同一作品に取り組む度に新しい発見があり、「何故にこの時このテンポで表現されるのかが解らない」と述べておられます。それが解るにはカラヤンは50年を要すると語っていましたね。それ故に、モーツァルトの音楽は殆ど自然の一部に同化していると考えるしかないのです。その様なテンポによる表現は将に「究極のテンポ」であります。究極のテンポは Tempo Infinito と呼んでおきましょう。全曲が3時間近くもあるオペラの中の、この幕のこの場のこの歌のテンポはこのテンポでなければならないことを感得するためには、私達は1000回近く聴かなければならないでしょう。1000回聴けば必ず解るという保証もありません。只、聴き続けなければ永久に解らないということだけは解ったのです。この様にモーツァルトのオペラは「テンポの変化でドラマを表現している」ので、序曲の第一音からフィナーレの最終音まで、妙なるテンポの変化を追跡して、オペラ作品全体の流れとそれぞれのアリア、重唱、合唱のテンポの変化を感得して、再現する演奏を評価する事は並大抵のことではありません。 では、究極のテンポとはメトロノームで数値表現が出来るでしょうか? コンピューターを使ってテンポの変化を数値表現することも現代では可能でしょうが、それは何の意味もないのです。何故なら、究極のテンポは数値的に幾らと決めることは出来ないからです。それ故に主としてイタリア語の音楽用語でテンポの指示を書くしかないのです。指揮者の個性は言うに及ばず、演奏会場の諸条件によっても、テンポの設定は幾らでも変わって行きます。同じ楽団と歌手と指揮者であっても、演奏日が異なれば前回と同一のテンポの再現は不可能であります。演奏開始時間も昼間と夜間では、演奏会場の雰囲気も全く異なります。聴衆の条件によってもテンポは微妙に変化をする筈です。演奏者と聴衆の間の目に見えないコミニケーションによって演奏会が成り立っているからであります。名作の名演奏は質の高い聴衆なくしては成立しえないのであります。ライブ録音が何時も精彩を放っていることも、スタジオ録音が面白くない理由もここにあります。音楽は時間の芸術であるので、他の分野の芸術とは際立って時間の要素が決定的なのであります。世阿弥は今から600年も前に、「風姿花伝之書」において既に舞台上の細やかなテンポの変化の妙を言葉少なく端的に述べ伝えています。 村山先生、モーツァルトの音楽は聴くだけでもこんなに大変ですが、ましてや作曲となると人知を超えているとしか言い様がありません。神の声 Vox Dei によるとしか説明の仕様が無いという結論も頷けるところでありますが、モーツァルトは千年に一人の天才ではあっても人間であり、決して神ではない事も史実であります。私はモーツァルトの音楽を最大級の賛辞で評論していますが、単なる神格的崇拝者ではありません。全人類の音楽の歴史において、モーツァルトが最も神の声に近い処に位置していることだけは言えると思います。私は京都での学生時代から38年も係って、ベートーベンからやっとモーツァルトに辿り着いた者でありますから、余りテンポの変化しないベートーベンの定型的な音楽からは、モーツァルトの無限に且つ精緻にテンポの変化して行く音楽は只ただ驚異の連続でありました。この世に生きている間に間に合った事を本当に神に感謝しています。人生の晩年を迎えるに当たり思うことは、「人生は短いのに芸術には終わりがない。そして必ず上には上がある」と言うことであります。「芸事は30年で入り口に辿りつき、40年で一歩入る。50年で更に進み、60年ではもう出口を探さなければならない」と聞いた事があります。20歳で入門すれば80歳ですから、もう寿命とも相談するべき時でもありますね。出口とは完成の門では無く、出発点の元の入り口のことである事も予想がつきます。テンポに関する研究も終わりはありません。この世に生ある限り、モーツァルトの音楽を聴き続けたいと願うことが私にとって最も幸せな日々であるという事実は疑いの余地はありません。 |
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1 Nov 2002 |
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