日本語のイタリア語化は可能か?

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Ky-085

Is it possible to Italialize Japanese Language?

村山先生、今晩は!新緑の季節になりましたが、今日は雨が終日降りました。植物には恵みの雨で、新緑は更に輝きを増すことでしょう。今日は日本語オペラの永遠のテーマである、日本語とオペラの適応性について考察致します。議論を単純明快にするために、選択肢を少なくして考察して参ります。オペラは1600年頃フィレンチェで生まれた為に、当初はイタリア語がオペラの専用言語であったことは事実であります。モーツァルトがドイツ語で本格的なオペラ「後宮からの逃亡」を書くまでは、オペラはイタリア語以外で書かれる事は殆ど無かったとも言えるのであります。その後はフランス語でもオペラは書かれました。英語で書かれたオペラも少数ですがあります。そして現代では、原則として何処の国の言語でもオペラを書くことは可能であると考えられています。しかし、歴史的に成功を収めたオペラは現代までにはイタリア語とドイツ語の二大言語がその大半を占めて来たのであります。ドイツ語化ではモーツァルトの貢献が無ければ実現しなかったと思います。
音楽と言語の一致こそは、オペラ制作の最も基本的で原則的な基礎条件であります。あらゆる言語にはアクセントイントネーションという発声する時の基本的な個性と特徴を生まれながらにして包含しています。一つの言語の中でも、地域によってアクセントもイントネーションも異なるのが通常であります。日本語においても、京都語を中心とする京阪型と東京語を代表とする関東型に大きく二分されています。日本語におけるこの二大言語はアクセントもイントネーションも全く異なりますし、正反対のこともあります。歴史的には1200年以上も京都語が日本語の中心言語でありましたので、京都語の歴史的変化が少しづつ遅れて周辺地域に伝播して行ったことが、全国の方言調査でも解明されて来ました。他国の人には殆ど解らない、鹿児島弁も沖縄語も実は平安時代の京都語がそのまま現代まで変化しながらも伝えられて来たのです。東京語という言語は実際には存在しないのですが、明治維新が成った時に全国からの出身者間で通じ合える言葉の必要性から、山の手で話されていた言葉に各地の方言を交えて人為的に編纂して文語調の話し言葉が成立したのが、所謂標準語となった経緯があります。関西では京都語を中心とする伝統的な役割は変らず、標準語が制定されても公式の場だけで使用されるだけで、日常生活では関西語という生活の言語が発達し続けています。関西で生まれ育った私達は余所行きの時だけ標準語を使い、日常生活では今までもこれからもずっと関西語で暮しています。京阪型の歴史的優位は現代でも変らず、話し言葉では若い世代を中心に関西語が全国に再び普及しつつあります。TVなどのメディアによってその普及の速度は速くなって来ました。しかし、それは話し言葉のことであって、オペラに使用する言語のことではありません。日本語のオペラを制作するには、どの様な日本語を用いれば良いのでしょうか?この日本語とオペラの関係は、団伊玖磨先生以来新しい実験作品は出現しておりません。団伊玖磨先生の「ひかりごけ」という奇怪な日本語オペラが日本語とオペラの関係で最も進歩的であると言われて来ましたが、残念ながら私は未だ一度もこの歴史的なオペラを見聞してはおりません。
四十年近くこの問題に取り組んで来ました結果、私が確信を持てる事は
五音音階が日本語にはぴったり合うと言う事くらいで、後は何も分かりません。其れ故に五音音階での作曲を試行錯誤で実験して参りました。そして、日本語には五音音階が最もよく似合う事に益々自信を深めています。歴史的には西欧音階が輸入されるまで、日本で行われて来た音楽は全て五音音階のみであったのであります。現代では七音からなる西欧音階が定着して、むしろ五音音階で作曲する方が遥かに難しくなっています。それでは、西欧音階で日本語のオペラを書くことは可能でしょうか?この問題こそは山田耕作と団伊玖磨の師弟の実験以来の日本語オペラの根本問題なのであります。そして団伊玖磨はある一定の水準までこの問題への解答を出されました。ここで逆転の発想をして日本語をイタリア語化すればどうなるでしょうか?イタリアで生まれたオペラですから、イタリア語なら完全なオペラを作曲出来ます。では日本語をイタリア語化するとはどう云う事でしょうか?
日本語とイタリア語の共通点は共に殆ど全ての言葉が母音で終わると言う事であります。しかし、日本語が全て単母音であるのに対して、イタリア語は単母音も複合母音もあります。単調な日本語のイントネーションに対してイタリア語は抑揚に富んだ言語でもあります。所謂
ベルカント奏法ではイタリア語には勝てません。無拍の超スローテンポの謡いが基本の日本的奏法とは次元の違う世界の歌い方であります。日本語をイタリア語的に変化させて歌って見たら面白いのではないかと、夢現つに考えて見たのが今日のテーマですが、意味不明の可笑しい日本語になるでしょうが、音楽的には言葉と音楽は完全に合致するでしょう。しかも、アルファベットで表記すればその事はもっと良く解ります。日本語のアルファベット表記法も学生時代から研究して参りましたが、未だに結論が出ません。中国語が既にアルファベット化に成功していますが、日本語は中国語に先を越されました。26個の表音文字と10個の数字だけで世界の全ての言語を表現出来たら、世界の文化交流に多いに役立つであろうとのユートピア的な夢を追い求めて来ました。各国の伝統文化と文字を否定するものでは有りません。世界共通の文字を持とうとする運動に過ぎないのです。因みにダンテは「俗語詩論」の中で、イタリア語こそは世界の中心言語であると公言して、他国の言語を低くみる過ちを犯していますが、ダンテがそう信じる程にイタリア語が音楽に最適の言語の一つである事は誰も否定する者は古今東西ありません。
しかし、現実に日本語をイタリア語化することなど、夢物語に過ぎません。只言えることは、日本語の単母音を工夫して、一部に複合母音を取り入れたり、子音で終わる言葉を創り出したりすること、アクセントとイントネーションを日本語離れした使い方をする工夫をして見れば以外と面白い音楽的効果を挙げるのではないかという夢を見ている様なお話で御座います。一笑に付されないでこの試行過程をご理解頂ければ幸いです。

人文の光を開けしダンテ翁、花の都の歌読みびとや!

Dante Alighieri the greatest poet had opened the door of literature for modern age !

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15 APR 2002

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Dante Alighieri : "De Vulgari Eloquentia" 俗語詩論 1303

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