「魔笛」 (7) : 台本の矛盾

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Ky-070

W. A. Mozart : Die Zauberfloete (7)

村山先生、「魔笛」のテキストには大いなる矛盾が含まれていますが、オペラ全体としては最終的には辻褄を合わしています。この理由は色々の説がありますが、シカネーダーの競争相手が同様のオペラを先に上演したからとか、シカネーダーの台本にモーツァルトが作曲中に自らどんでん返しの筋書きに変更したとか、フリーメイスンの奥義を反映させるために台本の一部を変えたとも言われて来ました。結果的には物語が童話でありながら童話の域を超える奥深い展開になったのも、モーツァルト自身の劇作家としての意図が強く表れた結果でもあるのでしょう。
矛盾点の一つは、始めに「夜の女王」の命令でパミーナを救出に向う時に、三人の少年が夜の女王から派遣されて道案内をしているのに、途中でザラストロの命令を伝達する役に変るという処であります。二つには夜の女王は娘を奪われた哀れな母親役である筈なのに、途中で夜を支配する悪役に変ってしまい、始めに暴君で悪者であった筈のザラストロが太陽を拝む正義の高僧となって登場するというものです。其れ故に、第一幕で華々しく登場したあのコロラトゥーラ・ソプラノを要求する至難のアリアを歌う夜の女王が第二幕のフィナーレでは哀れにも三人の侍女とモノスタトスと共に地獄へ落ちてしまうという結末になります。モノスタトスは黒人のムーア人で始めはザラストロの使用人でありながら、パミーナに言い寄ったためにザラストロから77回足叩きの刑を受けて、遂には事もあろうに夜の女王に仕えるという設定も何処か不自然ではありますね。単なる勧善懲悪の救出劇に終わる筈がフリーメイスン式の洗礼の儀式を苦難の末に完了するという展開になりました。タミーノはモーツァルト自身と同じく修業を完遂して「マイスター」の位を得ましたが、パパゲーノはシカネーダー自身と同じく平会員のままに終わりました。この様に矛盾だらけの台本なのに素晴らしいモーツァルトの音楽によって、台本の不備は克服されて全体としてはオペラ史上最高の仕上がりになりました。このことはオペラでは台本の如何よりも音楽の方が80%以上の影響力があると言えるのではないでしょうか?20%と言えども台本も大切ではありますが、「コシファン」の場合でも台本の中身よりも素晴らしい音楽のために、近年特に「コシファン」の真価が再認識されています。現代では「コシファン」の内容は現代的な価値観でもありますが、当時ベートーベンからワーグナーまで一斉に台本の非道徳性を非難しましたが、その音楽は素晴らしいとの証言を残しています。しかし、初演後は暫くして皇帝が亡くなられたため殆ど上演されなくなり、20世紀の初頭まで台本の内容故に不当な評価を受けて来ました。現代ではその内容は当代的であり違和感はなく逆にその先見性が評価されると美しい音楽の故に「コシファン」の人気は高まるばかりであります。アルノンクール先生は昨年素晴らしいテンポの指揮で最高の「コシファン」を世界のファンに示して、このオペラの復権を不動のものとしました。オペラでは逆にどんなに台本が優れていても音楽が貧弱では陽の目をみることは無いと確言出来る訳でありますから、オペラでは音楽が全てと言っても過言ではありません。
魔笛は元々は夜の女王の主人である、パミーナの父が稲妻の雷光の中で神秘的な時間に造ったとパミーナのアリアで歌われます。パミーナの父親とザラストロは親友で、父の死後に昼の支配権はパミーナの父からザラストロに禅譲されたとの設定になっている模様ですが、そのザラストロと夜の女王が真っ向から戦うというのも合点が行きぬくい処があります。台本は明かに途中で無理に変更された形跡が強く残っていますが、それはモーツァルト自身の意図であることも確かであり台本の辻褄よりも美しく完全な音楽によって台本の不備は些細な問題でしか無かったのであります。ザラストロの宮殿前で僧侶に取り上げられたタミーノの魔笛とパパゲーナの銀の鈴が第二幕の終わりの方で三人の少年達から返還されるというのも不自然であります。因みにパパゲーナとはドイツ語の鸚鵡と言う意味との事でありますから、鳥刺しの名前としては相応しいのであります。ある意味では台本が未完成であるのに音楽は完成してやっと初演に間に合ったというのが実情では無かったでしょうか。

何時の日か君と共に渡りたし、冥土へ続く幸せの橋!

Some day with you I want to cross over the Bridge of
Happiness connecting to Heaven !

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23 Nov 2001

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