カラヤンとメニューイン、モーツァルトを語る

music forum

Ky-067

Karajan und Menuhin sprechen von Mozart

村山先生おはよう御座います。1966年にカラヤンとメニューインがモーツァルトの音楽について話し合った貴重な記録を受信しましたので、その全文をご紹介致します。お二人がウィーンにおいて、ウィーン交響楽団と共にモーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番K219のリハーサルに先だって録画されたものです。
KARAJAN: 今日のテーマからは外れるけど、我々は今ウィーンにいるのだから、ユーディ、君がオーケストラと演奏する時、三つの立場を経験していると思うんだ。君自身の室内オーケストラを指揮しながら協奏曲を演奏する時、もう一つはよい指揮者が一緒で落ち着いて確実に演奏できる時、そしてその反対もあるだろう。これらの違いをどのように見ているのかね?
MENUHIN: 例えばあなたと演奏する時、あなたのような大指揮者とでは、最早何も必要ではなく、幸せで満足しています。何よりインスピレーションを受けているのです。私の小編成の楽団とやる時は、それは室内楽のようなもので、我々は感じたことや意見を交換し、これは非常に楽しいものです。演奏の全責任をみんなで分担するわけです。
K: 君はいい指揮者とやる時が、一番落ち着いて演奏できるようだね。そうした可能性は他には?
M: リハーサルを十分にやる時です。もうこれ以上オーケストラとは何もやる必要がないというまで。それ以外ではやはり偉大な指揮者と演奏する時ですね。あなたの言われるようなことは、もちろん起こります。指揮者がオーケストラと私の間に立って混乱させるという〜
K: 君の場合はさらに第四の活動を付け加えるべきだろうね。二週間前パリで君はシューマンの交響曲第四番を指揮していたね。君がそのような大オーケストラの前に立つ時、どんな印象をうけるのかね。自分と異質の団体に対するとか〜
M: それは非常に感激的なものです。まれにしか指揮はしないので、ヴァイオリンのように自動的にできるものではありません。あなたにとっては、オーケストラはご自分の腕みたいなものでしょう。
K: そうなるには、何十年もかかったのだよ。
M: そうですね。ヴァイオリンでもやはり何十年もかかります。
K: 君がリハーサルを始めようとする時どんな感じかね?君がよく知らない初めて指揮をするオーケストラの時は、どうやって始めるのかね?
M: 二つのことを区別しなくてはならないと思います。一つは自分自身が内面に持っているビジョンつまり解釈です。二つ目は音楽や楽譜の背後にあるものを知ることです。そしてオーケストラの演奏を訂正する言葉は、極めて正確で客観的でなくてはなりません。文学的ではなく〜
K: では我々は君がオーケストラの前に立ったと仮定しよう。一つの曲についてまとまった見解をもっている人たち、もう一つはその曲を知らず一度も弾いたことがない人たち〜。基本的にはこの方が楽なのだがね。
M: 二つの異なる難しさがあると思います。一つは基本からやらなくてはなりません。他方では出来上がっているものから自分を守らなくてはなりません。しかしいずれのケースも非常に興味深いものです。我々は一度バルトークのディヴェルティメントをイギリスのロンドン交響楽団とやりました。彼等はその曲を一度も弾いたことはなかったのです。それはすばらしいものでした。一日中9時間も練習したのです。あなたなら恐らく3時間で十分でしょう。私達は熱心に練習し最後にもう一度通して演奏したほどです。それはオーケストラでは非常にめずらしいことです。ベルリン・フィルではベートーヴェンの交響曲第四番をやりました。私は本来もう何もやるべきことはないはずです。彼等はあなたとやっているのですから〜。それは全く素晴らしいものでした。しかし、それでも私は何かを望んでいたのです。私は何もしないてただ立っているというわけにもいきませんでした。しかも最初何かが正しく聞えなかったのです。さらにいくつかの細かい点で私の期待とは違っていたのです。そこで私はお願いをしましたが、みんな親切で了解してくれました。長年私が夢見ていたことが、すぐに実現されたのです。
K: それは彼等が本当に柔軟に人々の意見に対応できるからだよ。もともとオーケストラに対しては恐らく12か14の言葉で必要なことはすべて説明できるよ。その箇所について極めて正確に指摘されていれば〜。それは何時も殆ど同じで、高い、低い、大き過ぎる〜、そして通常よくある誤り〜、スラーが十分でないとか、リズムが間違っているとか。もちろんよいオーケストラでは、こうした間違いは少ない。
M: しかしそれらはいつもほぼ同じ箇所だ。こうした誤りには何か共通点がありますか?
K: まず第一には人間的な不注意というか、例えば音楽の中にすでにその表現に対立するものがあるのだ。交響曲七番のリズムを例にとろう。(カラヤン、ピアノでリズムを弾いて見せる) もし耳が聞えなくても、見るだけで誤りだとわかる。こうしたボーイングでやっていたら〜、もし正しいリズムでやっていたらもっとゆっくりでもいいのだ。リズムが悪いと速く聞える
M: 最後の8分音符が長すぎるのですね?
K: そうだ、3拍子のところを2拍子でやっているようだ。これはどのオーケストラでも起きることだよ。
M: その不注意がすべて同じようにしてしまうのです。例えば海と陸の間の温度差をなくしてしまいます。短い音を長く、長い音を短く、大きい音を小さく〜。本来、我々は劇的な効果のためにコントラストが必要なのです。
K: そしてさらにもう一つ我々が忘れてはならないことがある。音が連続している時に、その間の空間が最も重要なのだ!一つの音と次の音との間にどれだけの時が流れて行くか〜、一つの音に続いて次の音を全く完全に精密に連続させる。もちろんこれで旋律にはより強い緊張が与えられる。そして練習では、まさにこのために殆どの時間が費やされる。ある期間において、ベルリン・フィルで私が有名な曲を指揮すると、旋律の線は再び可能な限りの完全さを見せるようになる。とりわけ最高潮のところで完全なフレーズで演奏される。オーケストラはいつも小節の縦線で制約されているのだ。それは受け継がれて来た制約だが、それから解放しなくてはならない。
M:
 老子の教えをご存知ですね。触れることができない物の方がより大事なのです。車輪で大事なのは支えている棒ではなく、その間の空間なのです。家で大事なのは壁や屋根ではなく、その中の空間なのです。
K: 同じことを音楽についても我々は既に語りあったわけだ。個々の音と音の間の空間が重要ということだ。休符の長さではなくて、一つの音から他の音へと行く間に流れる時間だ
M:
 さらに象徴的な意味では音楽に対する理念であり姿勢ですね。
K: 私がベルリンで開く指揮者講習会では最重要の原則として、まず練習のやり方を生徒たちに教えている。なぜなら、私はよく目撃するからだ。手や腕の動きが全く硬くなっている生徒たちを〜。彼が望んでいる響きとは全く反対の動きをしているのだ。こうした緊張状態はけいれんしたような動きで現れる。だから、私はいつもある曲のリハーサルをやらせる。そして、どこが間違っているかを生徒に指摘させる。長すぎるのか短かすぎるのか、高すぎるのか低すぎるのか、いつも同じようなことだが、どこから手をつけるべきか〜、どんな時にどんな方法でやるか知らなくてはならない。それを学んだら彼の動きはひとりでに自然なものになる。そして、彼が聴きたい響きが聴けるようになる。彼は自己を取り戻し、その結果手の動きもよくなる。その音楽が表現する和声的な経過を示すことが出来るようになる。しばしば誤って使われているのだが、指揮のテクニックとは、何を意味しているのかね?それを何か定義しようと思ったことがあるのかね?
M: それは指揮者が持つべき最低の条件だと思います。テクニックがなくては何も出来ません。しかし、その作品の正しい解釈や理解を持つことがその前提です。
K: そうだ。しかし伝統的に確立されたものもいくつかある。一拍目では手を下におろすとか〜、それでオーケストラを楽に指揮できるという技術は確かにある。だが、私はそれに反対だ。何故かと言うと〜、オーケストラが強制されて修正しても、それはもう間違った響きだ。だから私は別の意見を持っている。修正自体が正しくないとだめなのだ。和声的な基礎が正しく置かれれば、その後に来るものは音楽の本来の流れを正しく示すのだ。私は何度も面白がってやったのだが、古い世代の指揮者たちの真似をして見せたのだ。私は尊敬する6人の指揮者を君の前で見せることが出来る。人々が真似できない彼等の特別の技術を〜。だが、生徒たちはこの精神を感じなくてはならないのだ。表面的な動きは真似できるが、その精神には及ばない。それでは無意味なのであって、自らのやり方で体験すべきなのだ。そうすれば最後にはなんとか手の動きで表現できるようになる。最初から手の動きを学ぶべきではない。それは後からでよいのだ。
M: あなたは手だけですか?声も必要ですか?時々歌っておられますね。
K: それは第二のシャリアピンでもないし、声はよくないし〜
M: リハーサルの間いつも歌っている人もいるし、コンサートの時も歌っている人もいる。
K: しかも調子はずれの音程でね。トスカニーニみたいにとくに合唱の時は一緒に歌うことはよくあることだ。合唱団にはあるフレーズを歌ってみせることが必要なのだ。ある響きを表現するためには、比較して示してやるのがいいのだ。しかし常に音楽とその表現との関連においてやるべきだ。これらの音符にどういう意図をこめようとしているのかを理解させる。指揮者たちとのコンサートも、こうして不可欠になってくる。一連の音符から現実には音楽が生まれてくるためには〜。君も知っているようにその時、大オーケストラが大きく膨れあがる。もはやただ言われたことをやるだけの100人の奴隷ではなく、私のベルリン・フィルのような偉大な存在になる。すべて正しく練習してきたことが演奏会が始まるとやっと実現する。オーボエやヴァイオリンがあるフレーズを私が望むように演奏し、インスピレーションを与えるといった段階をはるかに超えて〜。
M: あなたのオーケストラであると同時に独立した存在となる。
K: 君自身とは異質の団体と感じられるかね?私にとっては異質の団体ではなく対抗する団体となるのだ。簡単に言えば非常に調和的な結婚生活のようなものだよ。人々は同じ共通の段階にいるのだからお互いを尊敬する。しかし同時に完全な独自の特質を発揮する。それに対しては彼等も私も深く敬意を表する。オーケストラから期待以上の響きが出てきた時〜、それはまさに新しい創造の瞬間だ。もう全く別の世界に移っている。
M: あなたの理念をリハーサルで貫徹しておいたことが重要なのですね。オーケストラの人々の人格を尊重し元気づけることも必要ですね。
K: 新しい息吹きを吹き込むんだ。さらにもっと何かがあるんだ。彼等は100人の団体だ。その100人が一つの統一体へと結合されていくのを確認できる。君も我々もよく体験してきたとおりだ。例えば何か悪い事件による1000人の恐怖の反作用は恐ろしいものだが、他方では本来調和的で美しいものの動きを見るのは素晴らしい。人々が一つの統一体と膨れあがるのは演奏会で体験できる。いつも人々を魅了する鳥たちの飛行に例えられるだろう。300羽もの鳥たちがある共通の意見に導かれて飛ぶ。目に見える指導者がいるわけでもないのに〜、完全に組織された素晴らしい美しさを見せてくれる。
M: オーケストラも同じですね。よいオーケストラは本能的に決して間違ったことをやりません。(完)


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文献 「オペラ全集」 芸術現代社 1980

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「歌劇大事典」1962音楽之友社 

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