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Nikolaus Harnoncourt : Mozart "Le Nozze di Figaro" |
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村山先生、ニコラウス・アルノンクール先生は1929年生まれの世界的な指揮者ですが、指揮棒を持たないことと、日本に来てくれないことでも有名であります。お若くしてウィーン交響楽団のチェロ奏者となり、同時に古典音楽を作曲された時代の様式で再現する活動をして来られました。最近、アルノンクール先生の指揮によるオペラを何本か視聴しましたが、これまでの他の指揮者とは異なる精彩を放っていますので、否が応にも注目していました。CSのClassica Japanが今回、アルノンクール先生が欧州の若い歌手とオーケストラにモーツァルトの「フィガロの結婚」の練習をつけるドキュメンタリー(1995)を放映したのを視聴しました。その練習風景の合間に、スイスの高山でのインタビューがモーツァルトの音楽に対する取り組み方を音楽概論として格調の高いお言葉で綴られていました。モーツァルトの音楽におけるテンポについての研究をまとめている時でしたので、アルノンクール先生の結論は将に我が意を得たりなのです。以下にその要約をお伝え致します。モーツァルトの音楽を根源的に理解しようとしている唯一の天才的な指揮者として、現代の世界で知る人ぞ知る方であります。 始めにアルノンクール先生の芸術論として次のように述べられました。「私にとって芸術とは、人間にとって非常に本質的なものです。芸術なくして人間などあり得ません。私は音楽家なので、音楽を中心に考えがちです。芸術はすべてを包含するものです。音楽を絵画や彫塑、詩作、建築、哲学と切り離すことは出来ません。また一方で、我々が自然の一部でもあることもとても重要です。私の内にあり、自然に備えている動物的な要素も、芸術的な要素と同様大切にしたいと思います」と。 モーツァルトの音楽の普遍性については、同じ作品を演奏する度に、新しい発見があると次のように述べられました。「私にとって、モーツァルトは大きな謎です。どうして、このような音楽が生まれたのでしょうか? 家族や結婚の点から見ても不思議です。家庭で3−4歳の子供が音楽に才能を示したらどうでしょうか? 通常の人生とはかけ離れ、家庭は根底から揺るぎます。可愛い赤ちゃんではなく、ワニが揺り篭の中にいるのと同じです。モーツァルトの両親は信じられない程のことを成し遂げました。わけが解らず悪魔的でさえある子供の才能を大らかに育み、あれほどの芸術家にしたのですから。これは両親の愛と教育が成し遂げた大きなわざです。私はモーツァルトの翻訳者であり解釈者として、彼の考えをより良く理解することが努めだと思っています。この努めは常に続き、同じ曲への取り組みを繰り返して行くのです。同じ曲に取り組む度に新しい発見があるのも不思議でなりません。「フィガロ」の多面性の全体を把握し伝えることは不可能です。だからこそ芸術は常に新しく、昔の作品の単なる再現ではないのです。彼の芸術はあらゆる時代に渡り、人々に伝える内容を持っています。その内容は人間に絶対必要であり、どんな演奏でも表し尽くせません。モーツァルトの跡を追い、少しでもこれに追いつくことが私の課題です」と。 モーツァルトの音楽におけるテンポによる表現については次のように説明されました。「モーツァルトはとても綿密にテンポを指示しています。彼の自筆譜でテンポ指示を書き直している個所を見ると、テンポの設定が彼にとって重要な問題であったことが解ります。「フィガロの結婚」には約40もの細かいテンポの表示があります。しかし、その他の演奏指示、例えばアーティキュレーション等は、奏者が当時の演奏習慣に従うことを前提として書かれています。しかし、19世紀を経て今ではその演奏習慣は失われてしまいました。楽譜の読み方自体が変わり、作曲家はアーティキュレーションを正確に記譜するようになりました。18世紀末、モーツァルトの頃に当たり前と思われていた演奏習慣を異なる時代精神に基づく習慣として今は努力して理解せねばなりません。これはとても重要なことがらです。当時の演奏習慣は当時の人々にとってのみ当たり前のことがらなのです。今日では、当時の演奏習慣を理解するよう努める一方で現代の聴衆の理解を得るための方法も考えねばなりません」と。 またアルノンクール先生は続けて、「私が音楽作品を演奏するのは、その曲を理解出来るからです。私は作品の成立した時代を基礎に、曲を理解したいと考えます。作品を演奏する第ニの理由は、曲が成立した時代だけでなく、時代を超え、どの世代にも何かを伝える力のある作品だからです。この二つの柱に基づき、私は現代にあって過去の作品を演奏するのです。モーツァルトが言葉や音の語法をどのように扱ったかを習得し、次にそれを今日の聴衆のために翻訳し解釈して演奏するのです。何故なら私も現代の人間であり、現代の語法でしか話せないからです。モーツァルトは登場人物の心理に応じてテンポを決めたと思います。調性でドラマを表現したように、テンポでドラマを表現したのです。作品全体がひとつの弧を描くようにテンポが次々と変わりますが、常にドラマの進行と心理状況に応じてテンポが設定されています。そこには偶発的な要素は殆どありません。ですから各部分のテンポ設定の理由を良く理解することが必要です。それが理解出来て初めて、現代の聴衆に合わせた解釈が工夫できます。モーツァルトは「フィガロ」をオペラ・ブッフォとは呼ばずに、「喜劇的なメロドラマ」と呼びました。「ドン・ジョヴァンニ」がドラマ・ジョコーゾと呼ばれていたように、悲しみの影のない明るさなどありません。同時に明るさや楽しさの見込みの全くない悲しみもないのです」と。 「フィガロの結婚」のテーマについては、アルノンクール先生は次のように解説してくれました。「このオペラでは結婚が前面に押し出されているのでしょうか? むしろ男性と女性、あるいは個人間の緊張の方が強調されており、もともとスザンナの結婚は単なる合言葉でしかありません。伯爵夫妻の仲は、結婚三年目にしてすでに破綻しています。我々の目から見ると、二人は不幸で伯爵は浮気で夫人を悲しませます。夫人は伯爵の帰りを待ちながらも、ケルビーノの色気に惹かれます。つまりここに見られる恋心は結婚を目的としてはいないのです。この秘密めいた緊張と興奮は二重の関係を意味します。結婚とは何か、夫婦はどうやって緊張を保てるか。問題は当然打ち破られるべき官僚主義的な因習ではなく、エロスの総体を包括する緊張、すなわち人生の意味そのものです。時代精神が階級闘争に注目する中で、「フィガロ」のような演劇は貴族の厚かましさを糾弾し、大変な効果を上げました。特に社会にそのような雰囲気がある場合には、演劇作品の中の何か一言が大変な効果を生み出します。しかしそれは「フィガロの結婚」が真に意図するものとは違います。原作者の意識はともかく、ダ・ポンテとモーツァルトの考えは違います。彼等は原作に手を加え、元気溌剌で政治的思考にたけたフィガロ像を悲しげな主人公へと変えました。ですから階級闘争の表現はこの作品の目的ではありません。焦点はむしろ女性に当てられ、伯爵夫人とスザンナ役が強調されました。階級の差はあまり強調されず、伯爵夫人はロジーナであり、スザンナとまるで同じ階級の者同士のように話します。伯爵も同様にフィガロと仕事の仲間のように話しています。階級の違いはここでは全く強調されません。ケルビーノは庭師の娘とも話し、伯爵夫人の居間にも現れます。だから階級闘争はここでは全く問題ではないのです。同じボーマルシェの原作から作られ成功したロッシーニの「セビリアの理髪師」は騒がしく内容的に軽薄ですが、先に作曲された「フィガロ」の演奏にも大きな影響を与えました。ロッシーニの「セビリア」は圧倒的な成功を収めました。しかし、「フィガロ」が人間関係や困難や意気消沈や悲しみについて考えさせる作品であるとすると、「セビリア」は表面的な楽しさと騒動を追うだけの悪しき相続人です。この100年、「フィガロ」はロッシーニの悪しき影響下にあったのです」と。 音楽と人間との係わりについて、アルノンクール先生は意味深いことを述べられています。「音楽なくして人間などあり得ません。人は最初から何の目的もなく、美しい旋律を歌ったのだと思います。音の美しさと喜びを感じた瞬間に、人間は人間となったのです。そして最後の歌の音が終わる時、人間の存在も終わるでしょう。自然は言うならば混沌です。形が定まらず刺激的で、芸術によって芸術作品となります。ここに見る山や岩は単なる石の積み重ねではありません。道路の石の山はただの寄せ集めかも知れませんが、この山の岩を絵画として見ると、そこから芸術作品が生まれます。自然それ自体が芸術であり、芸術に霊感を与えるのです。芸術は本質的に自然の模倣であると言われています。しかし、実際には芸術とは自然を称え、言葉や色、あるいは自然の中に満ちている音によって、自然でない独自のものを生み出すのです。私にとって芸術と自然の関係、そして芸術自体が大きな謎です」とも。 現在72歳のアルノンクール先生は長年に渡る、卓越したモーツァルトの音楽への取り組みによって、モーツァルトの存在そのものが前人未踏の最高峰であることを証明されました。アルノンクール先生ご自身がオペラを書いて下さると一番良いのですが、先生はモーツァルトの音楽を現代のために再現することを目的とする指揮者であります。アルノンクール先生の再現するモーツァルトを徹底的に聴いて行く過程において私達もモーツァルトの音楽の何たるかを少しづつ知ることが出来ると感じられます。恐らく先生は日本へはもう来られないと予想します。何故ならアルノンクール先生はモーツァルトの作品を繰り返し現代に再現するために全力を注いでおられるからであります。もし来られる時はもうその努力を放棄された時であろうと。 (10 Jun 2001) アルノンクール先生が2006年11月に日本で公演をされる事になったと京都コンサートホールよりお知らせがありました。京都ではヘンデルの「メッサイア」全曲をウイーン・コンチェントス・ムジクスと公演されると聞いていますので是非とも聴きに帰りたいと思っています。2005年度には全米を廻られた由にて、何か経済的理由によるものと推察致しております。「指揮を取る毎に世界を震撼させる指揮者」と案内の資料には書かれてありました。直接に先生の指揮を拝聴出来ることはこの上なく嬉しいことで御座いますが、本当は日本に来られる間があればモーツァルトの新しい解釈で当時の演奏を再現して頂きたいと願っております。ご長寿と益々のご進展を祈念申し上げます。(2006年1月3日追記) |
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there be happiness of unconsciousness ? |
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