モーツァルトの音楽におけるテンポの構造

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Ky-064

Litto Ohmiya : Structure of Tempo in Mozart's music

村山先生、私には35年来の素朴な疑問があります。それは音楽全般に関することでもあり、最近は特にモーツァルトの音楽を繰り返し聴くことによってその疑問の回答をはっきりとではないのですが、その解決の糸口を掴めた様な気がして参りました。それは音楽の本質であり音楽が成立する、必要不可欠な基本的条件の一つであるテンポのことであります。他の芸術と全く異なるところは、「音楽は時間の芸術である」ということであります。楽譜に書かれた情報は演奏されて始めて音楽として聴くことの出来る芸術的表現となります。そして、その演奏は時間軸の上を止まることなく進まなければ、音楽的表現が出来ないのであります。モーツァルトが書いたオペラ「魔笛」の「夜の女王のアリア」は、歌手が歌いオーケストラが演奏することによって始めて音楽的表現が可能になります。その時、歌手に何か急用が出来て、例えばエディタ・グルベローヴァに電話が係って来たからといって、彼女が携帯電話で話したりすると、舞台上のオペラはご破算になってしまいます。また、オーケストラの一員が自分はこう解釈するからといって、指揮者とは違うテンポで一つのパートを弾くとこれもまた、オペラ演奏はご破算になってしまいます。指揮者は将にそのために存在するのであって、指揮者はその楽曲の再現に当たって、テンポを決める権限が与えられます。同じモーツァルトの「魔笛」でも、指揮者によって全てテンポが異なりますし、誰一人として同じテンポを再現する人はいません。また、同一の指揮者でも演奏する毎に、テンポは少しづつ変化していますので、完全に同じ条件の再現はあり得ないのであります。また、聴く者も受身の鑑賞者として受け入れられるテンポの許容範囲があり、ある人は速いテンポを好み、他の人は遅いテンポを好むからです。同じ聴く人においても、その日の感性の変化により、その許容範囲も変わります。厳密に言えば、只一回の再現は、それはそれ一度きりしか再現出来ないのであって、歴史的な名演奏と言えども二回と繰り返すことは不可能である訳であります。
では、メディアに記録されたデータはどうかと言えば、音響機器の物理的条件が一定であれば、そのメディアによる再現は毎回同一であると仮定することが出来ます。しかし、聴く側の条件は毎回変化することは考えられますから、
送信と受信でコミニケーションが成り立つとすれば、この場合でも完全な同一的再現はあり得ないことになります。ましてや舞台においては、歌手とオーケストラと聴衆との間の眼に見えないコミニケーションによってコンサートが成り立っているので、聴衆からの反応の如何によっても歌手と演奏者にも反射される影響がある訳であります。スタジオ録音が一般的に面白くないのは、聴衆の反応のない条件で記録しているからであり、劇場でのライブ録音が何時も精彩を放っているのは、演奏者と聴衆との生のコミニケーションの記録であるからであります。指揮者のテンポは聴衆の反応によっても微妙に変化して行きますので、その妙なるテンポの変化こそが、演奏の価値を決める最も重要な要素であります。また、その変化を感じ取ることが出来るかどうかを今度は聴衆にも問われているのでありますから、聴く方もそう簡単ではありません。
この様に考えて参りますと、では作曲者の指示する
真のテンポは如何にあるのかは、作曲者が指揮をしない限り永遠に解らないのであります。こうして歴史的なオペラの初演は作曲者自身の指揮で演奏され成功を収めた幸運なオペラ作品は沢山あります。モーツァルトの最晩年のオペラ「魔笛」もその幸運な歴史的作品の一つであります。残念ながら、メディアが発達していなかったので中継録画は残っていない訳であります。ここで重要なことは、作品は一度作曲家の手を離れると自由に飛び回るということであります。そして、テンポに関して言えば作曲家の指示するテンポが必ずしもその作品にとって最高ではないと言うことも出来るからであります。音楽が時間の芸術であるからには、テンポは再現する時の最も決定的な条件であります。それは上演する回数を重ねることによって、指揮者はますますその作品に対する熟知からその指揮者なりの最もよいテンポを導き出すでしょう。歌手も与えられたパートを回数多く歌えば歌うほどそのアリアに最適なテンポを見つけるでしょう。この意味において、指揮者も歌手も演奏者もその作品の専門家になる必要があります。そして楽譜なしで歌い演奏し、また指揮するところまで到達しなければ専門家とは言えません。
村山先生、モーツァルトのオペラ作品を繰り返し聴いていると、如何してここにこの旋律がこのテンポで現れるのか、
天才の閃きというか凄いインスピレーションを感じては、モーツァルトの人為ではなく神の声の様な音楽的表現を畏敬するしかないのです。私は只熱心なだけの素人ですから、モーツァルトの楽想に迫るには只ひたすらに何百回と聴き続けるしか能はありません。そしてモーツァルトの音楽は、何百回聴き続けてもその新鮮な感性を失いません。その簡潔で美しい旋律が、それに相応しいテンポで再現される時、神が人々に与えた音楽という至福を感じるので御座います。ここで申し上げるテンポとは、それによって音楽が表現される時間的速度の変化率のことであります。
そして、ウィーンでモーツァルトからバトンを直接受け取ったベートーベンも古典派音楽の幾つかの部門を理論的により精緻に仕上げたけれども、モーツァルトが全ての音楽領域に作品を残したの比して作曲領域は限られて、
楽想の自由な閃きにおいてもモーツァルトを超えることは出来なかったのであります。ベートーベンは理論的な完璧さを求める余り、展開が窮屈になり定型化する結果を招いた為に、モーツァルトが後世に伝えようとした展開の自由度の高さ、より自然に近づく楽しい楽想、即興演奏の可能性等を封じ込めてしまったとも言えるでしょう。モーツァルトのオペラ作品を聴き始めてまだ二年間ですが、その感想の一端をご報告致しました。
(4 Jun 2001)

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文献 「オペラ全集」 芸術現代社 1980

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