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Ikuma Dan : "Yiuzuru" |
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村山先生、今日は大変なことになりました。あの団伊玖磨先生が中国の蘇州で亡くなられたのです。最近は日中友好協会会長のお仕事で訪中する機会も多かったと聞いています。享年77歳と伺いました。私の悲嘆が大きいのは、団先生が日本を代表する作曲家であるからではありません。昨年ご紹介したインタビューで、「二人オペラ」を書くと公言しておられたからであります。オペラ400年の歴史を遡って行くと、オペラの原点に今一度立ち返る必要を感じていました。そのような時に「Scenes」という車関係の雑誌で団先生のインタビュー記事を読みました。そのインタビューで団先生は「次は二人だけのシンプル・オペラを書く」と約束しておられたのです。私自身は二人ではなく最小でも三人は必要と考えて実践していますが、登場人物の少ないシンプル・オペラの必要性は学生時代から抱いて来ました。21世紀になり、団先生がどんなシンプル・オペラを書いて下さるか、本当に心待ちにしていたのです。何しろあの「夕鶴」の作曲家ですからね。日本人が書いたオペラで今も世界に通用する唯一のオペラ作品がこの「夕鶴」ただ一曲なのですから、制作後50年で世界中で650回も上演された歴史的実績を持つ純日本調のオペラなのですから、私が学生時代から唯一の目標として来たからです。木下順二先生の戯曲が優れていることも確かですが、お二人の先生が共同制作した日本人の作品で、初めて世界的な評価を得た記念碑的な作品です。今日は直ぐにレコード店へ行って来ましたが、団先生のCDを一枚も置いていないので、「夕鶴」、「交響曲集」、「結婚行進曲」他を注文して来ました。それでは、団先生の最後のインタビュー記事となった上記の雑誌の全文をご紹介致します。 団伊玖磨先生の略歴: 1924年東京に生まれる。1945年東京音楽学校(現・東京芸大)作曲科卒業。46年NHK専属となり、劇音楽や童謡で活躍。47年「交響曲第一番」でNHK管弦楽懸賞特選に入選、一躍脚光を浴びる。49年オペラ「夕鶴」で毎日音楽賞、山田耕作作曲賞等受賞。以降も「ひかりごけ」、「すさのお」、「建ーTAKERU」等大作を発表。音楽活動のみならず、アサヒグラフ誌の連載随筆「パイプの煙」では、読売文学賞を受賞。その幅広い文化交流の実績から、98年国際交流基金賞も受賞。2000年6月11日から2001年3月11日まで、全国21会場で団伊玖磨作品を続演する「DAN YEAR 2000」を開催。古今未曾有の規模のフェスティバルとして世界の注目を集めた。 Q: 団伊玖磨さんと言えば、英国紳士のイメージ。「銀座菊水」では、シャーロキアンの団さんが、ホームズ型のパイプを提案なさったと伺いました。 A: ええ、「菊水」は、未だに銀座の精神を保っている希少な店。嬉しいことに年中無休なんです。「煙草を吸うのに大晦日も元日もない。不自由を掛けちゃいけないから」って。この自己規制は天晴れだと思う。そういう精神が、僕は好きなんですよ。それに「菊水」とは、祖父の代からのお付き合い。だから気心が知れています。それだから我侭も言えるし、それだけに我侭が言えない。お互いに思いやる心がありますから。 Q: お洒落で気を使っていることはありますか。 A: お洒落とはなんぞやということを考えると、単に身に着けているものが何かということではないでしょうね。心の持ち方、心の姿がお洒落の第一義。だらしない気持ちが、きちっとした服を着ていても似合わない。僕の商売は音楽だから、出没する範囲が広いんですよ。いきなり皇居から呼ばれるかも知れない。芸術院へ出向くかも知れない。突然築島でもんじゃ焼きを食べているか分からない。多種多様性に即応できるようにしなきゃならないわけです。つまり最低限の身だしなみでいられる緊張感や警戒心が大切なこと。それがあってこそ成り立つのが、お洒落なのではないかな。 Q: 作曲の道を志したきっかけは。 A: 僕がピアノを始めたのが、8歳の時。所謂お稽古で与えられる西欧の曲があるでしょう。それが僕の中では、どうも座りが悪かった。だって最初にくれる曲って幼稚でしょう。その幼稚さに耐えられなかったんですよ。もう少し変えたほうが綺麗だと思って、僕流に変えて弾いていたんです。そうしたら先生が、「そんなことをするぐらいなら、自分で作ったらいいじゃないか」って。その先生が幸いなことに、幼児の音楽創作教育における、大家の人だったんだね。それで僕は作曲を始め、数年後父の友人である山田耕作さんと出会い、それからはもう、一瀉千里に作曲の道を突き進むことになったわけです。また、太田黒元雄先生という方がお書きになった音楽史の本を読んだら、「日本の作曲家は山田耕作以来、碌なのがいない」と書いてあったんですよ。なんたることだ、誰か一生懸命やる人はいないのかと思った。それで僕が、一生懸命にやることにしたんです。だから非常に単純。単純で、偶然みたいなことですね。 |
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Q: 山田耕作さんとの出会いは、14歳の時ですね。お父上の陰謀があったとか。 A: そうそう。「息子が作曲やるって言ってるけれど、どうせ才能なんかないんだから反対してくださいよ」って。前の晩に山田先生に電話をかけているんです。そんなこと僕は知らないから、真面目に楽譜を清書して、足をがたがた振るわせながら、先生の所へ行ったんですよ。だって「先生がだめっておっしゃたら諦めるんだぞ」って言われてましたから。そうしたら先生、楽譜なんかには目もくれず、人の顔つきだけをじいっと見て「やることにしよう」っておっしゃったんです。後で「どうして楽譜を見てくれなかったんですか」って聞いたら、先生はかんらからからお笑いになって「ジャリの書いたものなんか、みんな同じだよ」だって。問題は気構えであり感性。今、僕もその時の先生と同じ立場になることはありますけれども、楽譜なんか見る必要はない。見る必要があるのは、その子自身。 Q: 怖い方だったと伺っていますが、どんな方でしたか。 A: よくいろいろな人をぶん殴っていたそうです。僕は殴られなかったけど。最後まで可愛がってくれました。怖かったことなんて、一度もありません。そして、素晴らしい方であり、同時に偉大な反面教師でもありました。お金、お酒、女性問題、それもあって、僕はお酒は飲まないし、お金にも敏感だと思う。そして女性には警戒心を持っている。不幸なことですよ。先生の方が幸せだ。 Q: オペラ「夕鶴」は、国内外で650回ぐらい公演なさってますよね。すごい回数です。忘れられないエピソードも多いのでは。 A: うん、でも昭和27年からだから、もう50年間やっている。だから650回だなんて言っても、50で割れば一年に13回? 多いかな。もちろん、それぞれに思い出はあります。最初にニューヨークで上演したときは、ソプラノの大谷きよ子さんと僕だけで、アメリカの歌手たちに日本語の歌詞を全部教えた。音符と一緒にすると、言葉って覚えやすいんですね。それから大谷さんと僕とで大道具引っ担いで組み立てたりもしましたよ。大道具は全部日本から送ったんだけれど、「日本の道具は竹細工のように繊細だから、どう立てていいか分からない」ってアメリカのスタッフたちが首を傾げているんでね。青春だったなあって想う。 Q: 「夕鶴」が長く幅広く支持される理由は何だとお考えですか。 A: そりゃまず、原作がいいからさ。世に数多オペラというものはあるけれど、いい原作のオペラは少ない。「夕鶴」は、木下順二さんという偉大な劇作家が、自分の思想を民話の形で精魂込めて表現した、珠玉のような原作だからね。愛情かお金か。要するに精神か物質かの葛藤です。そのテーマが、人をして感動させしめる。そしてそれを支えているのが音楽。つまり原作者と作曲者が共同して作り上げた世界が、人の胸を打つんじゃないでしょうか。日本の芝居は、素朴な形で人間を存在させて話を描くことが得意ですから、これからまだまだ、ミュージカル風でない本物のオペラが生まれると思いますよ。歌舞伎の伝統一つ見たって、世界に冠絶する技術を持っているのですから。ただ単純な経済効果だけ考えていたら、音楽は滅びてしまう。そして、誰かが「滅びさせたくない」と一生懸命やり続けてなきゃ音楽は存続できない。音楽だけじゃなく、絵でも彫刻でも、建築でもそう。精神か物質か。「夕鶴」と同じですね。気骨、意義。八つ裂きにされてもやるんだっていう気持ちがないといけない。 Q: 作曲は八丈島のスタジオでなさるのですか。 A: 一年の半分以上いた時期もありますね。「建ーTAKERU」や「すさのお」の時がそうでした。また大作を書き始めれば八丈へ行くでしょうし、そろそろ向こうを本住まいにしようかなとも思っています。 Q: 海はお好きですか。 A: 僕ね、小学校4年生の時に幼児結核だったんですよ、乾性肋膜。息をするたびに、ものすごい痛みがばりばりと走るんです。でも、当時は今のようないい薬がないから、医者は「転地して寝ていなさい」って言うだけ。そこで僕は葉山へ行き、漁師のおばさんが作ってくれるご飯を三度三度食べて、窓からいい空気を入れてひたすら寝ていたんです。そうしたら、治っちゃった。すごいもんですね。それ以来僕は、海から離れられなくなりました。海の空気が必要と思っているんです。 Q: いつお建てになったのでしょうか。 A: 最初に建てたのは昭和38年です。山田先生がいけないんですよ。先生が「八丈島に引っ越すから、君もついてこい」っておっしゃったことから始まったんだから。でも先生は、基礎工事の穴を開けていたときに老人性肺炎で逝ってしまわれ、僕だけが残った。昭和40年の12月29日。残念でした。三度ぐらい一緒に八丈へ行ったけれど、一緒に暮したことはないんです。今のスタジオは、平成5年に建てた二代目です。建築家になった息子が「親父さん。あれ程好きだった八丈のスタジオを、また建ててあげよう」って言うから、「本朝廿四孝だね」って孝行息子を持ったのは幸せだと思っていたら、「費用は全部親父さんが出すんですよ」だって。そうかまあいいや、って建てました。 Q: その愛するスタジオで作った「建ーTAKERU」や「すさのお」を含む、団伊玖磨の集大成たるものが「DAN YEAR 2000」というフェスティバルですね。 A: そうですね。このイベントは現在進行中、来年の3月11日まで続きます。昭和・平成に生きた一人の作曲家の作品を続演して、その音楽とは何ぞやということの答えを知りたいという人たちが集まってくれたということですかね。それを全部やってみて「なんだつまらん」と知るも一つの結論。あるいはその逆も一つの結論。いろんな考えがあってもいいんです。 Q: 週間「アサヒグラフ」に、1964年から36年間、入院された時の5週間以外は休筆なし。日常の物事への視点もユニークです。どこからアイディアは溢れてくるのですか。 A: ふふふ、だって人は一週間生きていれば、何百ってことを考えるじゃないですか。普通に考えているだけ、いろいろなことに惑わされず、全く純粋に考えているだけの話。丁度子供が疑問を感じるようにね。例えば、あそこに何冊本が入っているのかなあ、本当に本なのかなあ、4冊目には何か隠してあるんじゃないのかなあなんて、人は必ず何かを思うじゃないですか。そういうことを、ただ書いているだけなんですよ。だから「パイプのけむり」にテーマがあるとすれば、「人が何かを考えるということは自由だ」ということです。「考える」ということは、人間に与えられた特権、これ以上ない最高の娯楽であって、しかもお金は一銭もかからない。 Q: 作曲と執筆の両立について。 A: 音楽と文学の両方がある、というのは僕にとって実に幸せなことなんですよ。音楽というのは具象性が無い世界。例えば音には、美しいもの、暗いものと、いろいろな種類がありますが、犬なら「犬」という具象は表現出来ないんですよ。どんなに電話帳のような作曲をしても、大部なオーケストラを総動員しようと、「犬」そのものは表現し得ない。また、しようと思ったら間違うのです。でも大という字に点を打ちゃ「犬」だ。文字はすごい具象性ですよね。否応無しに犬を考えさせてしまう。一方の世界にいると、もう一方が魅力に感じるんだね。だから、随筆を書いていると、僕は音楽が書きたくなる。僕が幸せだと感じるのは、そう思うのが一週間に一遍ぐらいなのですよ。その時は「パイプ」を書いて、後は作曲する。ですから「パイプ」以外は、余り書かないんです。その時間はいくらなんでもないよね。 Q: 「パイプ」に感じられるような、「豊かな日常」を送るヒントはありますか。 A: 僕はこう思うんですよ。貧乏は嫌いじゃない。でも貧乏たらしいことは嫌いです。そして一番貧乏たらしいのは、人の真似。人は一人一人性格が違い、思想があるわけです。その考え方で、正直に生きていきたい。それから「考える自由」。意識的に考えるだけで、世界は広がりますよ。よく人は笑うんだけど、僕は嫌いなものが好きなんですよ。例えば、僕はきゅうりってものが嫌いなんだけど、よく食べる。嫌いな人と会うのも、大好きです。そうしないと、人は狭くなりますよ。だから否定したって存在するんだから、なぜ嫌いなのか知りたいでしょう。えらい縁起、深い理由があるかもしれない。そういう大切なものを取り落としたくないんですね。「考える自由」。これは断固、命を賭けても守っていきたい。自分に正直に生きて、自由に考える。そういったことが、豊かさに通じるんじゃないかな。 Q: 日本文化についてのご意見をお聞かせ下さい。 A: 音楽でいうと、例えば三味線。「葉桜や 人に隠れた 昼遊び」ってな感じで情緒はあるが、噴出する人間のエネルギーは感じない。茶道でも能でもそうですね。簡素なよさ、というんでしょうか。伝統は伝統で、素晴らしいと思う。でも、その良さが即ち現代日本であるとも、その伝統の上に居座っていてよいとも思わない。僕は、20世紀から21世紀に向おうとする地球の時間と無関係ではありたくないんです。何とかして、日本に豪華な音楽を作りたいし、世界を圧倒して満足させたい。日本に対するキュリオシティだけで成り立つ、脆弱なものではない音楽でね。 Q: 団さんは「雁」「雪国」等、映画音楽も手がけられましたが、日本映画についてのお考えは。 A: 非常に単純な経済効果ということによって、日本映画は崩れつつありますね。あの素晴らしい監督、助監督、カメラ、俳優たち。彼らは一体どこへ行ってしまったんでしょう。すごく残念ですよ。日本国としての大損失です。 Q: 「DAN YEAR 2000」の後のプランは。 A: 次は「DAN YEAR 3000」を考える。まあ、医療も発達してきたから、後2,30年は作曲できるだろうと思っていますので、慌てず騒がず、ゆっくりしたスタンスで仕事を続けていきたい。今度はデュオ・オペラっていうのをやりたいんです。二人しか出てこないもの。もう決まっているんですけれども、一つは恐怖のどん底を描いたもの。それを書いたら、次は痛快な喜劇を書きたい。そんなにいつまでも同じ所にいないですよ、人は。どんどん変化してゆくから。 Q: 好きな言葉はございますか。 A: 「我が言を聞け、淫らなるなり。我が行ないを見よ、正しかるなり」 ローマ時代のセネカの言葉です。これは割に好きですね。それを守っているわけじゃないですよ。わざわざ言葉を淫らにしたりはしない。でもこれが逆だと大変だ。「我が言を聞け、正しかるなり。我が行ないを見よ、淫らなるなり」じゃあ、困った人だ。つまり、表面的な言葉などはどうでもいいということですよ。「何をしたか」、そこに人の価値はある。怖い言葉です。 (インタビューアー:曽川祥美 答える人: 団伊玖磨 2000年秋) |
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(17 May 2001) |
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