能はオペラか?

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Ky-061

Japanese Nou is an opera ?

村山先生、今夜はジャズタウンに先立ち、今治城公園で行われた第二回今治城薪能についてご報告致します。平成13年5月16日午後6時から上演の演目は、「杜若」と「石橋」で間に狂言「太刀奪」が挿入されました。私はカメラマンとして参加しましたが、フラッシュを使わないという条件での撮影に苦労致しました。「杜若」の物語の要約は、東国行脚を志した都の僧(ワキ)が、三河国の八橋までやってきた。沢の辺りには、今を盛りに咲く杜若。それを目にした僧は、さらによく見ようと杜若の側へ近寄り、四季を違わず美しく咲くこの花に感動する。そこへ、どこからともなく一人の女(シテ)が現れる。女は「この八橋の杜若は古歌にも読まれた由緒ある花だから、他所のものと一緒にしてくれるな」と言い、その謂れを語り始めた。八橋の杜若は、伊勢物語の中で在原業平が和歌に詠んだ事で知られている。この地を業平一行が通りかかったとき、ある人が「かきつばた」の五文字を句の上に置き、和歌を詠むよう勧めた。そこで業平は「唐衣 きつつなれにし 妻あれば はるばるきぬる 旅をし思ふ」と詠んだ。その後、時代は移り、業平はこの世にいなくなったが、八橋の杜若はその時のことを思い出し、季節になれば、今でも美しい花を咲かせる・・・というものである。そしてひとしきり話し終えた女は、夕暮れが訪れたことを知ると旅の僧を自分の家に招くのだった。その夜、女は透き額の冠をきらびやかな衣をまとって旅僧の前に現れる。「このように賎しい身分の女が、宮廷貴人のような装いで現れるとは・・・」訝しがる旅僧に、女は「この衣は和歌に詠まれ、二条天皇の后となった高子が着ていた”唐衣”、冠は業平の形見である」と答える。そして、自分は杜若の精であり、菩薩の化身としてこの世に現れた業平を弔いたいのだと伝える。業平を称え、昔の思い出に浸っていく女。物語に出てくる女性は菩薩である業平によって救われた人々である。そして女は「自分の事を嘘とは思わないで欲しい」と頼み、旅僧を労うための舞を舞って、どこへともなく去っていくのだった。
間狂言の「太刀奪」は、7月7日、北野社の社壇を境内の池の水で洗う神事が執り行われるとあって、大賑わい。主は太郎冠者を同道して、お手水会に出向く。途中見事な太刀を持っている男に出会う。太郎冠者は、その太刀が欲しくなり、盗もうと思い立つ。丸腰なので、主の太刀を借り受け、盗もうとするが、太刀は奪えず、おまけに主から借りた太刀まで獲られてしまう。そこへ主が来て「太刀は盗れたか」と聞かれて、「お借りした太刀まで獲られました」というと、主は「その者を早く捕らえよ」と二人が追っかけると主がその男を捕らえた。太郎冠者に「早う縄を持って来い」というと、太郎冠者はないかけの縄を拾って来て、縄をない始めた。主が「早うなえ」というと太郎冠者は「今のうとります」と言いながらぐずぐずしている。ようやくなえると主は「この者の脚を縛れ」というと太郎冠者はうまく出来ない。そうこうする内に主が「後ろから縛れ」というので、太郎冠者は後ろから主だけを縛るのでその男は悠々と逃げてしまうという筋書きでありました。「泥棒を捕まえて縄をなう」という諺を狂言に仕立てたもので誰が見ても面白い狂言でした。
最後の演目である「石橋」は、前段と後段に分かれていますが前段は時間の都合で省略されて、後段の赤獅子と白獅子の舞だけが上演された。物語は、文殊の浄土にかかる石の橋。訪れた文人出身の寂昭法師は、身命を賭して渡ろうとする。死んだ愛人を葬るにしのびず、何日も添い寝をし、ある日口を吸ったところが「おぞましき香」が出て来て発心したという。石の橋はしかし、虚空に虹を描き、幅は一尺にもみたぬ。現れた山の童子は、生半可な法力ではと押しとどめ、橋の自然湧出を語り、その神秘の姿を描き出す。後段では、獅子は知恵の菩薩・文殊の乗る霊獣である。能の獅子は勢いの象徴であり、エネルギーそのものの表現である。歌舞伎の荒事の類とは別の、剛直・渾身の演技がそれを可能にした。内にこめて強い能の気迫が、外にほとばしり出た姿とも言える。
「杜若」の出演者は、シテに池内光之助、ワキに板苗融、コーラスに当たる地謡に男女合わせて八人が出演したが、男声と女声の別はなく、混声のままの謡である。楽器は、笛に光田洋一(京都)、小鼓に竹村英雄(京都)、大鼓に三王清(広島)、太鼓に森田澄子(岡山)の皆さん。極めてシンプルな舞台構成であり、
三人オペラの参考になりますが、オペラとの相違は「謡い」にあります。将にモンテヴェルディの時代のモノディ形式の朗誦そのものであります。シテとワキは舞いながら台詞も謡います。能面と呼ばれる面を使うところがギリシャ悲劇と共通しているのが面白いと思います。フィレンチェのカメラータ達はオペラを創造する時、原則として面は使用しませんでした。極東の日本では面を重視して来たのも興味ある歴史的事実ですね。楽器の構成が極めてシンプルなことも多いに参考になります。また、オペラでは演奏者は一言も喋りませんが、能の場合は囃子方は文字通り、掛け声のような囃しを入れます。「おー」とか「やー」とか囃していますね。オペラではオーケストラの演奏者が喋ることは考えられませんが、楽器が少なくなると囃すのも面白いと感じました。能は伊賀上野から奈良に来た猿楽の観阿弥一座を京の足利義満が招いて完成させたもので、観阿弥・世阿弥親子の功績は世界の舞台芸術史上特筆すべき素晴らしいことであります。しかし、オペラ研究者の眼から言えば、無言の舞がかなり時間が長いことと歌唱ではなく、モノディ形式の謡いに終始することには違和感を感じます。そしてオペラ同様に、能も完成されて新しい作品が殆どないのは将来への展望がないことを示しています。オペラの誕生は1600年頃でしたが、能はそれよりも遥かに早い室町時代の1374年に観阿弥(42歳)率いる観世結崎座が京の今熊野神社で17歳の将軍義満の前で上演したので、オペラの誕生より226年も早い事に注目しなければなりません。その子の世阿弥が遺した「風姿花伝之書」は世界で最初の舞台芸術論として比類なきものであります。この様な長い伝統をもちながら、その後の江戸時代に形成された、日本人の保守的な性格からか、オペラへの道が開かれることは無かったのであります。そして1603年4月出雲の阿国(推定32歳)が京の北野神社境内で初めて「歌舞伎踊り」を披露して上下貴賎の別なく京の町が熱狂したことを思えば、フィレンチェのカメラータ達と年号まで同じ年に歌舞伎が始まったのでありますから、日本人の舞台芸術にかける心意気は当時は凄いものがあったと思います。歌舞伎に影響を与えた能も、また阿国が始めた歌舞伎も20世紀に入ってからは新作は殆どなく、この点はオペラと同じ運命を辿っています。21世紀の日本で古い伝統を持つ新しい舞台芸術が生まれる可能性は十分高いと信じる者であります。
(16 May 2001)

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文献 「観世流百番集」 1982 Kyoto

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「日本全史」 1991 講談社

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