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W. A. Mozart : Don Giovanni |
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前回に引き続いて、モーツァルトの傑作「ドン・ジョヴァンニ」の200周年記念公演が1987年7月29日にモーツァルト生誕地で毎年開かれるザルツブルグ音楽祭で上演された時の公演記録を視聴しての感想をご報告申しあげます。ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮のウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン国立歌劇場合唱団と舞踏団、演出はミハエル・カンペでした。出演者はドン・ジョヴァンニにサミュエル・レイミー、レポレルロにフェルッチョ・フルラネット、ドンナ・アンナにアンナ・トモワ・シントウ、ドン・オッターヴィオにイェスタ・ウィンベルイ、ツェルリーナにキャスリーン・バトル、マゼットにアレクサンダー・マルク、ドンナ・エルヴィーラにユリア・ヴァラディ、騎士長にパータ・フルチェラッジェの皆さんです。出演者の概評では、パータ・フルチェラッジェはスカラ座の「アイーダ」でエジプト王を演じても存在感のある歌手で石像となってからの歌唱力にも低音の迫力がある。ユリア・ヴァラディは「プラハ」のダニエラ・シォノヴァー・プロウコヴァーに比べて舞台上での動きが激しく演技で歌唱力を補っていたが、やはり堂々とした詠唱で観衆を圧倒したダニエラには及ばなかった。マゼット役のアレクサンダー・マルクは難しい役であるが少し演技が乱暴であり、「プラハ」のボフスラフ・マルシークの方に軍杯が上がる。ツェルリーナ役のキャスリーン・バトルは健闘したが、「プラハ」のイジナ・マルコヴァーの可憐さには遠く及ばない。ドン・オッターヴィオ役のイェスタ・ウィンベルイは歌唱力も高くそのよく響き渡るテノールは、「プラハ」のミロスラフ・コップと同じくテノールの時代の到来を予感させる熱唱であリ、「カラヤン」組にあっては最高の歌唱力を見せた。ドンナ・アンナ役のアンナ・トモワ・シントウはさすがに堂々としたソプラノであるが存在感があり過ぎて、仇役の主人公であるサミュエル・レイミーの影を薄くした。主人公のドン・ジョヴァンニとのバランスにおいては「プラハ」のエヴァ・ジェポルトヴァーの方が好印象を受ける。レポレルロ役のフェルッチェ・フルラネットはこのピエロ役の難しい演技を最後まで熱演した。「プラハ」組のルジェク・ヴェレと対等の評価を得るであろう。どちらも主役のドン・ジョヴァンニとの相性が良かった。さて、「カラヤン」のドン・ジョヴァンニ役のサミュエル・レイミーは熱演ではあるが、「プラハ」のパウェル・ホラーチェクに比してドン・ジョバンニ役の実戦経験の不足を感じるし、主役の歌唱力にしては少し物足りない。それにしても、「プラハ」組の全出演者の豊富な上演回数を誇る自信からくる迷いのない演技は素晴らしい。「カラヤン」組は恐らく俄か部隊からくる不安定さを否めない。さて、オペラ全編を通じて流れる音楽はオペラの本質的な基本条件であるが、「カラヤン」は舞台装置の不備もあり、最後まで乗り切れなかった印象が残る。また、カラヤン特有のあのスローテンポは堂々とはしているが、もっと動きの欲しい「ドン・ジョヴァンニ」の舞台には盛り上がりを欠く結果となった。このオペラの重要なポイントである主役のサミュエル・レイミーとドンナ・エルヴィーラ役のユリア・ヴァラディの歌唱力の不足と共に総合評価を下げる結果をもたらした。カラヤンはこのオペラに関しては、「ドン・ジョヴァンニ」の専門家であるコシュラーの緩急自在の指揮には及ばず、コシュラーに「百日の長」があると言わなければならない。コシュラーの前には譜面台さえ無かったのであるから。また、演出のミハエル・カンペも同じ理由で「プラハ」のヴァーツラフ・カシュリークのオペラの流れに勢いをつける演出に遥かに及ばなかった。その結果、オペラの上演時間も「カラヤン」の方が20分以上も長く係った。舞台装置においても「プラハ」は東京まで完全な装置を運んで来たが、「カラヤン」はモーツァルト生誕地でありながら舞台装置の機動性が悪く、また暗い印象を受けた。モーツァルトの歌劇は「イドメネオ」以外は全て喜劇的要素があるので舞台も明るくすべきである。今回のザルツブルグ音楽祭は「ドン・ジョヴァンニ」200周年の年に上演されたので、台本は1787年10月29日初演の「プラハ版」に拠っていた。このことは発表以来200年間も世界中で上演され続けて来た、「ドン・ジョヴァンニ」を記念する音楽祭としては正しい選択であった。 今夜は1987年7月29日にザルツブルグ音楽祭で上演されたカラヤン指揮のザルツブルグ祝祭大劇場における「ドン・ジョヴァンニ」の200周年記念公演記録を視聴した感想を申し上げました。改めて最も大切で決定的なオペラ進行のテンポですが、「プラハ」の1985年の来日公演よりかなり遅くて私には少し着いて行けないところがありました。幕間と場の変換の舞台の設定は「プラハ」が遥かに進んでいて、オペラ全体の流れに淀みがない。「カラヤン」は幕間も場の変換も手間取り過ぎて観客に「音楽的緊張感」の停滞を来した。これに対して「プラハ」は「ドン・ジョヴァンニ」の本家としての誇りが感じられて、上演回数と習熟達成度においても並々ならぬ「静かな迫力」を感じる。一人ひとりの出演者の歌唱力も全て「プラハ」が上回ったと思います。それは各歌手の経歴が上と言う意味ではない。「ドン・ジョヴァンニ」を演じるにおいてどれだけ練習し且つ上演したかの実績の相違による勝利である。指揮者も又同じく、指揮者の知名度ではなく、「ドン・ジョヴァンニ」を指揮する回数と実績において、コシュラーがカラヤンを圧倒したと言うことに他ならない。オペラにおいてはその演目の専門家になることが必要であって、単に有名な指揮者と歌劇団であると言うだけで選ぶ訳には行かない。改めてプラハ国立歌劇場とコシュラーのモーツァルトへの熱き思いを肌で感じた次第であります。ドン・ジョヴァンニが騎士長の石像の手によって連れ去られる最後の場面では、「カラヤン」は初演台本の通りに石像は最後までドン・ジョヴァンニの手を離さなかった。ザルツブルグ祝祭大劇場の舞台は全体として暗い印象を受けます。また、舞台装置も中世を思わせますが、「プラハ」の様に写実的ではなく絵画的でありました。(11 Mar 2001) この他にも1983年に上演された日生劇場での東京交響楽団と二期会合唱団による「日本語版ドン・ジョバンニ」の記録や、1954年にフルトヴェングラー指揮によりザルツブルクで上演されたウィーン・フィルの記録、1999年にリカルド・ムーティ指揮のウィーン・フィルでアン・デア・ウィーン劇場での記録も視聴しました。それぞれに特色のある舞台での歌唱と演出ですが、音楽だけはモーツァルト作曲の通りに200年変わらぬ名曲の響きであります。古典はこうして永遠に伝えられるものでありますね。(24 May 2008) |
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