「後宮からの逃走」

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Ky-044

W. A. Mozart : Die Entfuehrung aus dem Serail

世界の音楽史上私の最も敬愛する作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトは1756年1月27日にザルツブルグに生まれ、1791年12月5日にウイーンで永眠した。父はザルツブルグ大司教宮廷音楽家レオポルド・モーツアルトであり、4歳から父についてチェンバロの練習を始めて、たちまち上達し既に5歳で小品の作曲を始めている。6歳から父についてヨーロッパ中を演奏旅行に出て全欧を旅して廻る。1768年12歳で初めてのオペラ・ブッファ「La finta semplice」をウイーンで作曲しているが上演はされなかったが、翌年にはザルツブルグの宮廷で上演された。その翌年にはドイツ語のオペレッタ「Bastien und Bastienne」が同じく貴族邸の庭園で上演された。その年の暮れには一家で第一回イタリア旅行に向い、1770年ローマ法王に拝謁して騎士に列せられた。同年12月26日にイタリア語の歌劇「Mitaridate, Re di Ponte」がミラノで上演される。その翌年1771年二回目のイタリア訪問中に12日間で作曲されたセレナータ「Ascanio in Alba」が10月17日にミラノで上演された時、当時のイタリアの歌劇作曲家ハッセは、「この子は我々すべてを負かしてしまうだろう」と語ったという。1772年の三回目のイタリア訪問では、歌劇「Lucio Silla」が12月26日にミラノで上演された。この作品は20回以上も上演されて成功を収めた。1774年暮れにはミュンヘンに赴き、オペラ・ブッファ「La finta giardiniera」を翌年1775年1月13日にミュンヘンで上演し大成功を収めた。その後もヨーロッパ各地を旅して成功と失敗を重ねたが、1781年1月29日には再びミュンヘンで歌劇「Idomeneo」を上演し熱狂的に迎えられた。この作品は彼の最初の本格的なオペラ作品であった。色々な試練の末にこの年の6月以後、ウイーンを永住の地と決めた。そして、翌年の1782年6月16日にブルグ劇場で喜歌劇「後宮よりの逃走」を発表して8月4日にコンスタンツェ・ウェーバーと結婚した。その時モーツァルトは26歳になっていた。生活は不安定であったが、1785年5月1日にはローレンツォ・ダ・ポンテの台本による「フィガロの結婚」を初演したが、ウイーンよりもプラハで大歓迎を受けた。1787年4月には、ベートーベンの表敬訪問を受ける。二人の大天才が初めて出会った時、ベートーベンは若干17歳、モーツァルトは31歳であった。その年の10月29日には、同じくダ・ポンテの台本による「Don Giovanni」をプラハで彼自身の指揮により初演した。1789年には皇帝から新作歌劇の作曲の命を受けて、三度ローレンツォ・ダ・ポンテの台本になる「Cosi fan tutte」を完成させ、1790年1月26日にウイーンのブルグ劇場で上演した。翌年1791年にモーツァルトは35歳になったが、相変わらず生活は苦しかった。その後レオポルド2世の戴冠式用の歌劇「La clemenza di Tito」の上演が9月6日プラハで不成功に終わった後に、同年9月30日夜に、エマヌエル・シカネーダーの台本による童話歌劇「魔笛」がモーツァルト自身の指揮によりシカネーダーが支配人を務める劇場で上演され歴史的な大成功を収めた。しかし、4歳から音楽活動を始めた天才作曲家は同年11月20日病床につき1791年12月5日0時55分に遂に逝去した。翌12月6日葬儀が行われたが悪天候のため墓地まで同行する友人がなく、一日死体置場に放置されて翌日共同墓地に葬られたので、モーツァルトには正式の墓がないとのことである。音楽史上最高の天才作曲家の最後にしては心痛む寂しい別れであったが、モーツァルトの名が人類の歴史から消えることはなく永遠に光り輝いています。
さて、モーツァルトのオペラ制作の歴史を駆け足で振りかえって見ましたが、今回の「後宮からの逃走」はドイツ語の
Singspiel であります。モーツァルトは「魔笛」に到る
9年前に既にドイツ語のオペラを作曲していました。劇中のコンスタンツェとは、後にモーツァルトが結婚する相手のコンスタンツェ・ウェーバーその人でありますし、ベルモンテは彼自身でありましょう。物語は海賊にさらわれて、トルコの太守セリム・パシャに買われて奴隷として仕えている、ベルモンテの許婚コンスタンツェとベルモンテの家来ペドリルロとその恋人ブロンデの三人を救出するためベルモンテが単身でセリムの城に忍び込むとオスミンというムーア人の番人が一日中見張っているため容易には侵入できない。そこで、庭作りが好きな太守のお気に入りになっているペドリルロに建築家と偽って紹介させて城に入る許可を得た。オスミンは初めから警戒して監視の眼を緩めないので、ブロンデがオスミンをからかったり挑発したりして警戒をはぐらかすことにした。ブロンデは石庭の石の上に寝転んで本を読んでいて、砂の上に波の線の模様を描いているオスミンを何度も邪魔して怒らすが、オスミンはブロンデに気があるので彼女に嫌われたくないのでブロンデの言うことに最後は素直に聞いてしまう。また、太守はコンスタンツェを愛しているが強制はしない紳士的なところがある。コンスタンツェは最後まで太守の愛を拒み続けた。ある日の夜、ペドリルロはオスミンに睡眠薬の入ったワインをたっぷり飲ませて眠らせてしまうと、深夜12時丁度にベルモンテと二人で梯子を使って二階の独房にいるコンスタンツェとブロンデを救い出そうとするが、運悪くオスミンが眼を覚まして作戦は失敗する。太守は元スペインの騎士であるが、土壇場でベルモンテが憎きライバルの息子であることを知る。四人は捕らえられたが、一夜明けて太守セリムは、「
恨みには善行で報いる」と言い渡して、ベルモンテとコンスタンツェを解放する。「スペインに帰ったら、俺の捕虜になったが許されたと言え。俺に幾らかの感謝があれば、父親より立派な人間になれ」と諭すのであった。ブロンデとペドリルロもついでに、「故国で死ね」と解放された。ブロンデは「太守さま、お宿と食べ物をありがとう」と明るく礼を言う。番人のオスミン一人が怒り狂って退場すると太守を感謝する四人の歌と踊りがあり、彼等が去った後はトルコ人たちが「太守、万歳!」と人徳を称える合唱の内に幕が降りる。歌と台詞で綴るドイツのジングシュピールは、英国のバラッド・オペラの影響で北ドイツに生まれた長い伝統を持つ国民歌劇であり、イタリア語オペラの専門家であるモーツァルトも終着駅の「魔笛」はやはりドイツ語のジングシュピールであった。ジングシュピールは、歌とディアローグ(対話)で劇が進行するが、歌よりもディアローグで急展開することも多いという特徴がある。歌とレチタティーヴォで綴っていくイタリアのオペラとの対比は、21世紀のオペラを考察する上でも重要であると思います。
「後宮からの逃走」と「魔笛」を比べて聴いて見るとそこには「魔笛」を準備する要素が沢山見出される。ベルモンテが歌うアリア「コンスタンツェ、また会えるとは!」はタミーノが歌う「なんて美しい絵姿!」への準備でありましょう。コンスタンツェが太守に愛を求められて歌うアリア「深い悲しみに」と「あらゆる拷問が」は、「魔笛」では夜の女王が歌う二度のアリア「恐れるな、若者よ」と「復讐心は地獄の様に燃え」に通じている。何れも高音のコロラトゥーラを要求されているがコンスタンツェのは未だ完成されていない。夜の女王のアリアの方が遥かに完成していて安定感があり、コロラトゥーラも決まっている。また、オスミンの長々と歌うバスは太守のバスのディアローグ(語り)と共に、あのザラストロが歌う超低音のアリア「イシスとオシリスの神よ、願わくば」と「この神聖な殿堂には」の準備でもあると感じます。12歳からイタリア語とドイツ語のオペラを作曲しているモーツァルトは誰よりもオペラのことを知り尽くしている真のオペラ作曲家であります。「後宮からの逃走」を作曲中のモーツァルトは父に宛てた手紙で「
オペラでは詩は絶対に音楽の忠実な娘でなくてはなりません」と音楽と詩の関係について述べています。この言葉は21世紀においても、オペラの制作に従事する者の座右の銘とすべき金言であると思います。
今回の出演者は、指揮ヴォルフガング・ケンネンヴァイン、ルートヴィヒスブルグ城音楽祭管弦楽団及び合唱団、コンスタンツェにリューバ・オルゴナリーヴァ、ブロンデにマーリン・ハルテリウス、ベルモンテにデオン・ファン・デア・ヴァルト、ペドリルロにアンドレアス・ヴァーグナー、オスミンにトーマス・カールソン、太守セリム・パシャにテルヴァル・デ・ファリア(語り)。合唱指揮はディエター・クルツ、演出はマルコ・アルトロ・マレッリでした。この演出での特徴は、太守の庭をわが
京都の竜安寺の石庭をモデルにしていること、太守の親衛隊の半分を日本の忍者部隊として、トルコの民族衣装と回転舞踏も巧みに取り入れていることが面白いと感じました。東洋的情緒を演出するのに日本文化を彼等なりに研究しているのですね。
(14 Feb 2001)

神代より待たせる女待つ男、言葉虚しき根競べかな!

Man shall wait long for woman's answer, words be invalid since Goddess Age !

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文献 「オペラ全集」 芸術現代社 1980

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「歌劇大事典」 音楽之友社 1962

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CS Classica Japan broadcasting 11 Feb 2001

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