|
||
|
|
|
今は昔、この都に生まれし人あり 敦煌を過ぎ行きて楼蘭城に佇めば 何処よりか笛の音の砂嵐を 漣はうねりとなりて怒涛の如く その波間に漂う船ありて 夕日の西に傾きて 俄かに月曇りて空砲轟くは 星空に舞い上がりて 今は昔、この都に生まれし人あり さ迷える湖は今もこの砂漠の 何処よりか笛の音の砂嵐を |
||
|
||
注 湖は「うみ」と読む 東は「ひんがし」 |
村山さん、こんばんは。21世紀になって初めての作品が「シルクロード交響曲」の第三版であることをお慶び申し上げます。ご苦心と共に「弁証法的」な編集により「波の音」と「大太鼓の音」が同時に聞こえる作品となりました。私の方でも二つの「シルクロード幻想曲」を足してニで割る様な「弁証法的」な編集作業を行いましたところ、この度の「シルクロード第三幻想曲」の誕生となりました。いろいろ作り直して行くと、「即興詩」としての新鮮さが失われて来ますので、二律背反的な選択でもあります。クラシック音楽でもモーツァルト、ベートーベンからショパンとリストまでは全員が即興演奏の出来る大家でありましたが、リスト以後は即興演奏の出来る作曲家が完全にいなくなり、楽譜に忠実たらんとする「文献学的」な再現を至上とする時代になり、クラシック音楽も既に歴史的使命を終えたかの様に、彼等を超える様な大作曲家は其れ以後には出ていません。「即興詩」も同じことで、本来の詩は歌うためであり、古代から即興で詩を歌うことが普通に行われていたのです。現代でも発展途上国には、今も「即興詩人」がいますね。このことは21世紀にとっても極めて大切なことと考えています。商業主義のお仕着せの歌を買わされている現代人はある意味では不幸であると云えると思います。音楽も詩も食べ物も、出来立ての新鮮さに最も価値があると信じます。その意味においても、すこし鮮度の下がった「シルクロード第三幻想曲」となり誠に恐縮ですがお届け申し上げます。 また、同時に「作品12」のピアノ曲もお送り下さり併せて厚く御礼申し上げます。このピアノ曲の編曲もご計画とのことで、何時かまたお聞かせ頂きたいと念願しています。ブラスを加えて祝典的効果を出そうとお考えの由は御意にございます。村山さんの恩師の先生も音楽に載せて祝賀して頂けるとはご同慶の限りで幸せですね。ピアノをこよなく愛する人々が40人も集まる会とは素晴らしいですね。村山さんご自身も本当にピアノが一番お好きなのではないかと存じます。昨晩遅くまで音楽一家の友人宅でオペラ談義をしていました。病院に長年勤務した友人が退職して、五月からこちらで開業するとのことで準備に忙しくしていても、その奥さんは毎日ピアノの練習を欠かされません。昨晩はショパンをよく練習されていました。私にも何か弾けと言われても、私は何も弾けませんし、大分遠ざかっているため「即興演奏」の訓練も十五年間も空白で感性も地に落ちているので、そろそろ再開したいなとも思っています。結局その日はピアノには触りませんでした。リストの様に何時でも何処でも、ピアノの即興演奏が出来たらいいなと昔から憧れて来ましたが、見果てぬ夢に終わらない様にしたいと思っています。私は聴くのが専門なので、ピアノの演奏でもテンポの基本が決まっているかどうかに最重点をおいて拝聴します。どんなに技巧が優れていてもテンポが決まっていなければ機械的な演奏に過ぎないからです。即興演奏は只一度切りの演奏であり、同じ演奏はニ度と出来ません。それと同じ事が即興詩についても言えるのです。何度も手直ししては、最早即興詩では無くなるからです。 21世紀の冒頭に当たり、貴重な「シルクロード交響曲」第三版と「作品12」を拝聴出来て大変光栄に存じています。いよいよ21世紀が開幕しました。村山さんのご活躍により日本の音楽の歴史が前進する時代が到来しました。私も及ばずながら少しでも何らかのお手伝いをさせて頂ける事を大変誇りに存じています。何時もご幸運をお祈り致しております。村山さんが作曲される時と私が作詞する時には、共にミューズの女神のご加護により自然な集中力を頂きたいとお祈りしています。 (11 Feb 2001) |
||
|
|
|
|
|