|
||
|
|
|
今は昔この都に生まれし人あり 敦煌を過ぎ行きて楼蘭城に佇めば 何処よりか笛の音の砂嵐を 夜半過ぎて月光のさし照らす頃 その衣と帯の月に淡く輝きて 耳を静かに傾けば 突如月曇りて大音声とともに 砂嵐の舞い上がりて 然して嵐も過ぎ行き 今は昔この都に生まれし人あり さまよえる湖は今も 何処よりか笛の音の砂嵐を |
原音版を繰り返し演奏で聴きながら書いています。「第一版」と違うところは、波の音の代わりに大太鼓の力強い低音部が現れたことです。波の音はもう聞こえないので、ロプノル湖は今は水のない状態です。タクラマカン砂漠の下に潜ってしまったのです。ヘディン等が探検した時は水をたたえていたと云います。 笛の高音が天から聞えて来るのは同じ情景ですが、水のない湖面では天女が舞います。そして、突然大太鼓が鳴り響いて車馬が疾風の様に迫ってきて走り去ります。天女の優雅な舞から荒荒しい雄叫びのダンスに代わります。提示部と再現部は前作に習いました。 「今は昔」という書き出しは、日本の御伽噺の典型となっています。「物語」というのは平安の昔から、人の一生を語る事であったのです。生まれてから現在までを省略するときに、「今は昔」の定冠詞をつけることに決まっていました。 今回の詩作実験で、MIDIの多様性を発見して大変喜んでいます。楽譜を受け取ってどのように表現しようかという伝統的な演奏者の立場ですね。MIDI音源の多様性のある効果や設定を見て、21世紀になっても作曲家の主要な手段のひとつであり続けると確信いたしました。私もすこしづつマスターして行きたいと念願しています。今回は私がまだ音源を十分に使いこなせないために得た、望外の喜びでした。ロプノル湖に水があるのと無いのとは正反対の大きな相違ですが、それが同じ作品027であることも不思議です。作品は「シンプルな構成でも、表現する方法には多様性がある」のは、私の芸術観に合致するものです。村山さん、本当に有難うございます。かの伊能忠敬は56歳から、20歳近い年下の師匠に地理学を学んで、初めて日本全図を完成させたと云います。私も村山先生に多くのことを学んで来ました。それは何百回も名作を聴くというプロセスのことですが、それだけ聴いても、何もイメージが湧かなければ、聴く資格がないということになります。これからもどうか宜しくお願い致します。また、お時間がある時に「原音版」への作詞のコメントもお願い致します。私は前作の方が、より即興詩として新鮮味があると感じています。(3 Nov 2000) |
||
|
||
注 湖:うみと読む、ロプノル湖のこと 楼蘭:ローラン 衣:きぬ 帯:おび |
|
(11月3日 今治にて) |
|
|
|