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Usefulness and limit of MIDI |
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お送り頂いた新しいテープを毎日一回以上拝聴している間に、新しく幾つかのことが分かりました。その一つは、DownLoadしたMIDIファイルをPCで再生するとそのPCに内臓された音源を利用するので音質が悪いのは当然ですが、新しいテープで聴くと、音の構成がより明瞭に再現されます。再生側でもMU-1000の様な外部音源を利用すれば、同じ様な結果が出るかもしれませんが、明瞭に聴けるために却って次の様な感想が得られました。 (1) 音楽の要素の内で最も大切なテンポとリズムが、正確すぎて機械的に聞えることがあります。実際の楽器演奏の現場で聴く音楽のテンポとリズムは、楽譜は共通であっても指揮者と演奏家の解釈と個性によって、また演奏するその日のあらゆる条件下では、毎回とも全く同じ条件ということは有り得ないと思います。MIDI Playerではテンポをすこし変えることが出来ますが、それは再生する曲の全体のテンポを好みに合わすことだけであり、演奏家の曲想によるものではありません。音質が悪いPCでの再生の時は、テンポとリズムに関しては同じ条件なのに、音質が悪い故に、機械的なリズムを感じにくいのは何故でしょうか。 (2) 次は再生の設定条件によって変わる問題なのですが、Dynamic Rangeがテープ録音ではPC音源より大きいために、低音部の強調により中高音がマスクされることがある場合があります。例えば、「交響詩・札幌」のあの素晴らしい第一楽章の、二連四打の鐘の音が低音部によってかき消されそうになります。この場合は、この「画竜点晴」の鐘の音の究極的表現が生きてこなくなります。Dynamic Rangeの低いPCによる再生の方が、低音部の強調がないだけに、この究極的表現を味わうことができることもあります。 (3) 次には高音部についてですが、10000Hrz以上の音が再生されるメタルテープでは、Audio機器の精度にもよりますが、高音部が強調され過ぎて、「ラジオ級」のPC再生の方がより自然に響くこともあります。 このことは一見矛盾している様に聞えますが、実際の楽器演奏の現場での「アナログ的な」自然な音響とディジタル音との本質的な相違から来るものとも考えられます。この問題は、昔のLPで聴いて心酔したあの名曲を現在の「CDで聴いても感動が帰ってこない」ことと共通の問題かも知れません。MIDIの限界には、CDなどのディジタル技術そのものの限界の問題も始めから内包しているとも考えられませんでしょうか。 人物写真の場合、Nikonの明るいレンズでは決してよく写らず、MamiyaとFujinonの様な人物専用のより暗いレンズの方が人物はよく写る現実にも似ていると思います。因みに、1945年の時点で完成したレンズの内で、LeicaのレンズはNikonに、ZeisはMamiyaに近いと言えます。 (4) しかし、MIDIにはアナロクにはない素晴らしい効用があります。それは実際の音源を含まず、小さい容量のファイルで受信側のPCの音源や外部音源を利用して、音楽を速く安く転送出来るという、決定的な有用性では、アナロク的な発想ではとても考えられないことでしょう。そうして世界共通のMIDI技術のために、世界中の人々がインターネットで音楽通信が出来るのです。もし、今日の時点でMIDI技術がなければ、私が幸運にも村山さんの音楽に巡り合うことも出来ないし、その結果私の晩年に音楽人生が復活することも有り得ないことになります。この一事を以ってしても、世界の人々を音楽で結ぶMIDIは歴史的な発明であり、21世紀の音楽通信の主要な手段の一つとして機能し続ける筈です。MIDIはまだ発達すると思いますし、MP3の様なより高度な技術が伝送速度の向上により、21世紀には新しい幾つかの転送技術が登場すると考えられます。 (5) ディジタル技術が如何に発達しても、自然音に限りなく近いアナログ技術を超えられないかも知れません。その意味においては、MIDIもCDも限りなくアナログ技術に近づく努力を期待したいと思います。 ここまで考察してくると、如何に「自然音が偉大であるか」また、楽器による生の演奏と歌手による実際の朗唱が如何に素晴らしいか、将に「神が人類に与えた至福」の一つであると敬虔にならざるを得ません。 毎日新しいテープを拝聴しながら、曲想の展開とは別にこんなことを考えました。 (2000年3月7日)拝 |
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