鋼琴余話

Piano and Koto

Ky-003

March 3 2000

ピアノと琴
1999年夏にインターネット上で村山誠さんに出会うことがなかったら、私の晩年に音楽が帰ってくることもなかったでしょう。村山さんがあの“Symphonic Phantasy”を作曲された1985年に、私もピアノ独奏曲二曲を作曲・演奏していたのです。その存在を忘れる程、多忙な仕事のために音楽から遠ざかっていたのです。作曲・演奏といっても、音楽学校を出たわけでもなく、音楽を誰かについて習ったというのでもない。只、自分で歌えないくせに、クラシック音楽を聴くのは学生時代から好きでした。気に入った曲に出会うと、覚えるまで聴いたものです。これまでに100回以上聴いた曲は、二つしかありません。BeethovenのViolin Concertoと交響曲第三番です。前者はBluno Walter指揮Columbia Symphony Orchestra、ViolinはZino Francescattiでした。後者はParis Symphony Orchestra 指揮はベルギー出身のアンドレ・ クリュイタンスでした。私の学生時代に京都にパリ管弦楽団が来てコンサートがあり、聴きに行きました。その時はドビッシーのLa Merが印象的でした。その東京公演で演奏されたベートーベンの第三番を貧弱なオープンリールのTCに録音して繰り返し聴きました。Violin Concertoの方は河原町のよく行くレコード店のマスターが、閉店前に探していると、「レコード一枚だけと言われたらこれだけや」と渡してくれたのがベートーベンの唯一のViolin Concertoでした。そして、村山さんの音楽が第三番目ということになりました。村山さんの音楽は私の人生を35年前の青春時代に引き戻してくれました。長い空白の年月を全く感じさせない感動的で運命的な出会いでした。
それでは1985年に私が自作・自演した音楽をご紹介申し上げます。今までには、京都の音楽友達一人と奈良の女友達一人に聴いてもらっただけですが、理解してもらえたとは思いません。その当時、私が目指していた音楽は「
五音音階で作曲すること」「東洋的で京風の音律を表現する」「楽器はピアノで琴や琵琶の演奏法を取り入れる」というものでした。
ここで実験した「京風の五音音階」とは、
黒鍵音階の五音を基調として必要な音を白鍵から選んで使う極めて東洋的な音階を再構築するために造られた実験的音階です。これを「京風五音音階」と呼ぶことにしました。
次に「
即興演奏」についてですが、Jazzではよく即興演奏で盛り上がりますね。ところが伝統的なClassic音楽では、即興演奏は殆どありません。この実験作品では、主題を十分に練習してから、何十回と練習を重ねて曲想の展開を覚えきってから本番の演奏に望みます。二度と同じ演奏は出来ないのですが曲想の提示や展開は、殆ど頭に描いている通りに演奏できる様になるまで練習また練習を繰り返します。こうして一年間をかけて曲想の展開の形が出来上がったところで本番に向かいます。「只一回しか弾かない」という程の決意で望む事になります。良くても悪くてもそれが即興演奏の作品であり結果であるわけですから、「まだ楽譜がありません」、楽譜は今日の技術では作曲ソフトで幾らでも作成・印刷することも出来ます。
Op.1「
古都憂色」は二楽章からなるピアノ独奏です。秋の終わり頃に、紅葉が散り始めた洛北のあたりを一人で散策しているとお考え下さい。憂いを内包しながら、紅葉を踏んで歩むと、昔の人を思い出します。この道も何時かあの人と歩いた道、突然の時雨に古寺で雨宿りしましたね。移ろいやすく、変わり易い古都の秋を歩んで、振り返りつつも前に進まねばならない運命の道かも。北山はひとの憂いを包み込む山々でもあります。もの悲しくも美しい主題を繰り返して歌い上げました。第一楽章は15分、第二楽章は14分です。
Op.2「
天鳥水舞」は、天国にも琵琶湖の様な大きな湖があって、水鳥たちが乱舞している様を描写したのがこの30分の一楽章だけの曲です。大小の無数の水鳥が泳いだり、潜ったり、飛び上がったり、浮かんで休んでいたり、大軍をなして大空を覆ったり、つがいで戯れたり、一日中湖面は休むことなく、自然の息吹きとともに生命の賛歌を歌い上げます。現実世界では、兵庫県の昆陽池という池に毎冬沢山の渡り鳥がやって来ます。京都の鴨川にも毎冬ユリカモメがやって来ます。そんな情景を音楽で描写しようとした実験作品です。ピアノを琴や琵琶の様に演奏したり、鍵盤の全スケールを縦横無尽に駆使して、ピアノ固有の和音を生かしたり低音部で効果的リズムをとったりしています。
これら二曲とも、古典形式のABA'の三部形式だけに拘ってはいません。主題は遅くまた速く展開していきますが、形式にはまらないように自由に変化して、全体として一つの音楽世界を形成しようという実験作品です。ピアノ音は古いので高音部の音がずれていたり、テンポが自由自在に変化していくので、まとまりがない様にも聞えますが、「
大自然の息吹きをテンポとリズム」として、tempo rubato になっています。十五年間も眠っていた私の音楽の心の扉を開けて下さった村山さんに一度でも聴いて頂けたら、喜びはこの上ないものです。初めて村山さんの音楽に出会った時のあの歴史的な共感と感動を忘れることはありません。晩年に再び音楽に取り組める幸せを呼び戻して下さったからです。私の1985年(42歳)当時の楽想に共感して頂けたら、幸せはこれに過ぎるものはありません。(2000年3月3日)

Litto Ohmiya(大宮律人)は音楽上のペンネームです。

English Edition

押せば引き待てば返して寄する波、ひとの心もかくありなんや!

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To push causes drawing to pull the wave returns like Her mind !

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