|
ペシャワルの配給所⇒イスラマバード | |
ペシャワルでのファミリーパック作成は、徹夜作業で順調に進んだ。一応心配になり袋詰め作業を見に行った。 |
||
出来上がったパックは次々とトラックに積み込まれ、配給所に送られた。最初からここでやっていたらどんなにか楽にできたことだろう。 うまい話しには気をつけたほうが良いというのが教訓である。シャムス氏は、『降りたジブリール』ではなく、『降って沸いたシャイターン』であった。しかし、私の後輩である。学生時代は素直ないい学生だったのだが、難民援助という特需が彼を悪の道に向かわせたのだろう。帰国後、彼とのやりとりを始めなければならない。改心して真っ当な道を歩んでもらいたい。 |
||
突貫作業で積み込まれたファミリーパックは、配給所に到着した。 | ||
配給所の鉄の扉のまえには黒山の人だかりだ。鉄の扉越しに次々とファミリーパックを渡していった。もらって帰る人,やってくる人と往来はひっきりなし。また、ペシャワルとイスラマバードの両方から次々と到着するトラックをありがたく迎える沿道の難民たちの顔が見える。着ている服は、昨日一昨日に渡した服なのだろうか、今日は少しいい服を着ている人が多かった。イードが一日伸びることにより、本日集まった人たちに食糧が行き渡り、あすのイードは、たらふく美味しいイード料理が食べれることであろう。 みなさんの援助に感謝します。 |
||
この日の夜は、終始親身に世話してくれたM.D.I.メンバー、突貫作業で間に合わせてくれた業者の社長らと町のレストランで打ち上げをした。 | ||
レストランはあすのイードを迎え笑顔の客であふれていた。私たちの笑顔は、イード到来と任務を終えた安堵感の二重の喜びの笑顔であった。 | ||
レストランの入り口。 | ||
|
あぶ:帰国の途。ヤーセル氏、A氏:パキスタンに残る。 | |
イスラマバード空港をたった国内線は、カンダハルに近いクエッタ立ち寄った。飛行機の窓から見たカンダハル方面。 | ||
クエッタ インターナショナル空港ビル。 | ||
私はパキスタンを後にした。ヤーセル氏とA氏は、あと一週間パキスタンに残り、アボッタバードとペシャワルのアフガン難民支援に、残っているお金をすべて投じて引き続き支援活動をおこなうこととなった。 残った二人に帰国連絡を入れた時、可愛そうなニュースを聞いた。ペシャワルで陣頭指揮に当たり、夜にクーポンを配り、イスラマバード工場の異変に気づき即座に工場に出向き物資を差し押さえ、最後は食糧配布の陣頭指揮に戻るというたいへんな役柄ばかりを演じていたM.D.I.のマージド氏が,イードの日に入院をしたというのだ。今回の援助活動において、連日の睡眠不足で頑張っていたのは知っていたが、申し訳ないことをしたと思う。この一週間の過労が原因で寝込んだのだろう。さらに1週間後二人がパキスタンを去るときもまだ入院していたという。早く回復してもらいたい。 また、今回の活動に同行した在日パキスタン人ヤーセル氏も、12月24日帰国し、2日間音沙汰が無いと思えば、やはり寝込んでいた。 活動期間中は、ヤーセル氏、A氏とも連日睡眠不足が続いた上、ヤーセル氏は前半風邪の高熱を押しての活動。後半は、ヤーセル氏、A氏とも腹痛で体調を崩すなど、過酷な数日だったに違いない。 管理人あぶは、どういうわけか、元気そのもので、睡眠不足は続いたものの、目的を達したイード前夜は、おおいびきをかいていたそうな。そして、イードの礼拝は寝過ごして欠席という失態を演じた。そのあぶも、帰国間も無く、持病の膝痛が出てきた。不思議にもパキスタンでは全くでなかったのだ。この任務をスムースに遂行させてやろうという神の思いやりだったにちがいない。アルハムドリッラー。 厳しかった日々だったが、晴れ晴れとしたイード前夜を送れたのは最高の感激だった。たいへんだったけど、たくさんの経験をし学ばせてもらった。 最後に、常に私たちと行動を共にしたM.D.I.メンバーたちの献身的な活動には感謝をしたい。今回の援助活動は彼らがいなくては成し得なかったことである。『アルハムドリッラー、ありがとう、M.D.I.。(Markaz Ed-Daawa wal-Irshad』)すばらしいムスリムたちだった。 |
||