タイトル | : Re^3: 預言者様の誕生日について |
投稿日 | : 2008/03/22(Sat) 15:06 |
投稿者 | : うんむらふま <ummu_rahmah@infoseek.jp> |
アッサラームアライクム
また少々お話させてください。
ビドア[bid`a]:逸脱。イスラーム的に正しい道から逸れた考え方・行為・モノなどをさす。イスラーム的に正しい道・伝統をさし預言者ムハンマドの慣行であるスンナの対概念。ビドアには軽度のものから重度のものまであり、重度の場合は、異端とも訳しうる。ムハンマドの時代に存在しなかったものの使用や活用をすべて悪しきビドアとみなすかどうかについては、法学において議論があり、ハンバル学派およびワッハーブ派を除けば、必要な革新であり、いちがいに異端・逸脱とはいえないと考える立場が主流である。このような“良きビドア(ビドア・ハサナ)”の近年の例としては、アザーンの際にマイクを用いることなどがあげられる。また、法学における行為の五範疇(義務・推奨・許容・忌避・禁止)のいずれかに入るかは事例によると考えられており、ビドアがそのままイスラーム的に負の価値を表すわけではない。(『イスラーム辞典』より)
追記:ファーティマ朝後期の頃から、預言者の誕生日を祝う祭りが行われはじめた。最初は、参加者は政府高官や宗教者に限られていたようだが、“アイユーブ朝時代になると、スーフィー教団も積極的に参加するようになり、多数のムスリムを巻き込んだ民衆的祝祭の場になっていった。
以下はご参考までに:
預言者ムハンマドはヒジュラ10年(西暦624年)の最初で最後のハッジ(大巡礼)にアラファート平野の慈悲の丘から最後の歴史的な説教を行っている。この最後のハッジはハッジャトル・ウィダー(別れの巡礼)と呼ばれ、最後の説教はホトバトル・ウィダー(別れの説教)と呼ばれている。当時はマイクやスピーカーはなく、テレビもビデオもなかった。そこに集まったムスリムの大観衆に伝えるため、預言者の言葉はラビア・イブン・ウマイヤ・イブン・ハラーフによって文節ごとに大声で復唱された。
『人々よ、わが声を聴け!』は預言者ムハンマドの別れの説教を伝えるものであり、多くの国家や民族に分裂し混乱と緊張の極みにある今日の世界にあって、預言者ムハンマド(彼の上にアッラーの祝福あれ)の1463回目の誕生日に刊行された。
最後の部分の訳文から―預言者は人々にたずねた。「もし(アッラーに)私のことを問われたら、あなたがたはどう答えるか」。人々は答えた。「私たちは、あなたがメッセージを伝え、神託を完遂し、預言者の使命を遂行したことを証言します。あなたは私たちのすべてのことを完璧に善処なさいました」。
預言者ムハンマドの誕生日が“祝日”であることが問題というより、むしろどのように祝うかが重要な問題であることのようですね。
心静かに、「私は証言します。ただアッラーのほかに神はなく、アッラーには何人も並び立つ者がないことを。そして、ムハンマドはそのしもべにして御使いであることを。私は、アッラーを主として、ムハンマドを使徒として、そして、イスラームを宗教として、満足いたしました」(ムスリム『真正集』)と、私は祈りたいと思います。
長くなってしまいました、申し訳ありません。